2016年11月22日

土人発言の本質(8)

土人発言の本質(8)
日本政府の沖縄差別D

■放棄された「講和前補償」問題(下)

沖縄は講和前補償として、敗戦からサンフランシスコ平和条約発効まで7年間の米軍が摂取した土地の地代170億円の補償を要求した。

1956年12月13日衆議院外務委員会は、「講和条約発効前の補償問題について」質疑を行った。日本政府は「終戦後から平和条約発効までの米軍進駐でこうむった沖縄人の財産上の損失について要望が頻繁にある。政府としては、重要な問題であるが、沖縄側の言う百数十億円の巨費を要するもので、こうした問題に、それだけの数字があるものかどうか、損失自体に日本政府として調査をすることができない。島民から要望のある土地の損失補償は、財政的に非常に大きな損失となっており、いま直ちにこれを解決することは困難である」と答弁、沖縄県民を失望させた。

沖縄側は納得せず、重ねて要求したが、1957年3月9日、自民党政務調査会と総務会は、政治決断として170億円の要求に対し、沖縄への見舞金として総額11億円で最終決着を図った。

見舞金内訳は、講和条約発効前の土地補償関係10億円、外地引揚者関係8,000万円、元沖縄県庁職員の恩給関係2,000万円 であった。日本政府からの土地補償見舞金10億円は、1958年1月25日に開催された全島受任者会議で「旧正月に間に合わせるよう各市町村を通じて当該者に支給する」方針が決定され、支払いがなされたが、米軍占領下にあった沖縄では、講和前に受けた被害額170億円の補償に対して、日本政府は10億円の被害見舞金で決着したのである。

* * *
おわりに

なぜ沖縄の人たちは土人と呼ばれたのか? 差別構造は「日本政府南方連絡事務所」に源流があったのだ。復帰直前、私は沖縄北方対策庁沖縄事務局で沖縄復帰対策の仕事をしていた。その時、「日本政府南連」の資料を見て驚愕した。土人発言の水脈をたどると構造的沖縄差別の源流は南連ではないかとの思いから日本政府の沖縄差別を歴史の証言として取り上げた。

沖縄を思うとき、差別が今も織りなされている。辺野古で、高江で今、何が起こっているのか。目を覆いつくす不条理、国家権力。けれども県民はたくましい根をひとつにする。日本は醜い国家である。

本ブログを書いた目的は、「土人発言の本質」について琉球新報「論壇」に投稿したら封印された。自覚できないジャーナリストがいることに驚いたからである。国家の沖縄差別を伝えることも目的のひとつであった。県民は知らないからだ。それでいいだろうか? ひとつの現実の底を見た思いである。土人発言の暴言、差別構造、その内実があふれるようにあらわになっているのが今の沖縄である。

11月21日、夜6時から沖縄タイムス主催のシンポジュム『沖縄から問う 報道の表現の自由』を聞いた。「差別主義者との闘い」に触れていた。沖縄タイムス編集局長・石川達也さんの「土人発言・・・誰がさせているのか」は興味があった。取材していた記者が拘束された話をしていたが、沖縄から発信するマスコミ人の真髄が伝わる。

ジャーナリストの安井浩一さんは「権力と市民に公平性はあり得ない。不均衡、不公平、非対称性が沖縄の現状だ」と分析した。

毎日新聞特別編集委員の岸井成格さんは「権力が判断したら不公平、不公正になる」と話していた。被害者を出している巧妙、執拗な沖縄の現状に触れた。沖縄を伝えるのが沖縄の闘いだと述べた。

ワシントンポスト東京支局長、アンナ・フアイフィールドさんは「トランプが辺野古に来ると国際的関心を呼ぶ」と政治のシミュレーションに触れた。いろいろな考え方があるなぁ〜と思った。

シンポジゥムを聞いて思った。変わることのない差別。『沖縄は「権力の傲り」を許してはならない。これ以上の運命を背負って生きるわけにはいけないからだ』。(本稿終わり)



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2016年11月21日

土人発言の本質(7)

土人発言の本質(7)
日本政府の沖縄差別C

■放棄された「講和前補償」問題(上)

講和前補償とは、講和条約発効(1952年4月28日)以前に米軍が与えた損害補償の未解決問題であるが、日本政府は沖縄住民が受けた被害を放棄した。沖縄県対米請求権協会発刊の『対米請求権の記録』を基本に、沖縄無視の「講和前補償問題」について検証する。

損害被害の一つは、基地建設に伴う接収された土地、建物の被害、農地を接収された農作物及び「離作」の損害、軍用地に隣接している土地、建物の浸水、土砂流出などの近傍財産の損害、井戸、墓などの損害補償を放棄したことである。

二つは、米軍人、軍属などによる人身被害補償である。講和条約発効前までの人身被害は、死亡315人、負傷760人。罪状別に見ると死亡は、車両事故145人、射殺6人、轢殺7人、強姦致死4人、損害は車両事故108人、発砲による傷害32人、袋たたきによる傷害23人、凶器による打撲22人、強姦111人などが発生したが未放置した。

三つは、米軍の爆撃・射撃演習、上陸訓練演習などによる漁業被害補償である。
1955年5月、「軍用地四原則」を掲げて渡米した比嘉秀平行政主席以下6人の住民代表団は米国に対し、沖縄の実情を訴え「講和前補償」を要請したが、米側は、日本政府は講和条約第19条の規定によって如何なる請求権も放棄しているので米国としてはその責任を負えないと回答している。

一方、日本政府は、沖縄住民の請求権補償について、1956年12月、根本龍太郎官房長官は次のように述べている。

「平和条約19条にいう日本国領土には沖縄が含まれず、同規定にいう国民に沖縄住民が含まれないと断定することは困難であるという前提に立ちつつ、@日本国としても、外交上の保護権として沖縄住民の損失補償を米国に対して請求することは問題があるA講和前の沖縄は行政分離されているので、沖縄住民の土地の使用料については関知していないし、講和後においても米国が施政権を行使しているので、補償する責任はない。」─とし沖縄切捨ての答弁を行っている。







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2016年11月18日

土人発言の本質(6)

土人発言の本質(6)
日本政府の沖縄差別B

■「財政援助」を放置した日本
〜格差は国の責任〜

1958年5月、日本政府の対沖縄行政は「南方地域連絡局」から「特別地域連絡局」に組織が変遷、沖縄は南方地域から特別(特殊)地域として位置づけられる。日本政府沖縄事務所に援助業務課が設置され、沖縄への技術援助、医療援助、財政援助などを検討するようになった。琉球政府は、日本政府沖縄事務所に対して技術援助と財政援助を要請したが、沖縄事務所は米国民政府(USCAR)と折衝をしながら予算要求を決意し、翌1959年度予算で対沖縄技術援助費を計上した。

 技術予算は、沖縄戦で滅失した戸籍回復について本土の専門家を沖縄に派遣し、沖縄の市町村の戸籍担当者を対象とした研修費負担から始まった。敗戦から14年目に初めて戦後処理問題が予算化されたが、国の対沖縄戦災復興がようやく本格化したのである。

その後、技術援助は本土より立ち遅れた沖縄の経済、医療・社会福祉の向上、行政分野まで拡大されるようになった。特に医療分野は深刻な問題を抱えていた。終戦直後の沖縄の医師はわずか60人余で無医地区同然だった。

技術援助が開始された1959年7月時点で医師199人、歯科医師58人で沖縄は慢性的な医師不足に悩まされていた。1961年1月、日本政府は沖縄の医師不足解消を目的に無医地区への本土派遣医師等の医療援助を開始した。

さらに沖縄の基幹作物である農業分野及び模範農場への技術援助、本土・沖縄マイクロ回線の設定援助など通信分野まで拡大されるようになった。

1962年になると、沖縄を取り巻く国際環境に大きな変化が現れる。沖縄を統治している米国は日本政府に対し、沖縄統治経費の財政負担を日本政府に要求したのである。琉球政府発足以来、経済援助については放置されていた。このことは、わが国の財政史上、類例がなく沖縄の戦後復興が遅れた大きな原因となった。沖縄は、米軍統治下の特殊事情から日本の財政援助から取り残され、本土との社会資本・生活基盤の格差、所得格差が生じる原因となった。

なぜ日本政府は、沖縄に財政援助を行ったのか? その根拠は1962年に発表された「ケネディ沖縄新政策」にある。沖縄新政策は、沖縄が日本の一部であることを認め、@沖縄住民の福祉向上及び沖縄の経済発展を増進する、A太平洋のキーストーンとして沖縄の米軍基地を重視する、B日米協力体制の強化で沖縄基地を安定的に保有する─ことが主な内容であるが、米国は沖縄統治の経済負担の一部を日本政府に求めたのである。

日本政府は米国の要求を受け、1962年9月13日「琉球政府に対する援助について」閣議了解し、翌63年度に初めて沖縄への財政援助を開始する。この間、沖縄は米国民政府の財政援助に依存しながら戦後復興を歩んできたのである。日本政府は、日米協調路線を重視して沖縄に財政援助を決定したが、援助の内容は、@琉球政府(市町村を含む)の諸施策、事業等の水準を本土並みに引き上げ、住民の所得の向上に努める、A沖縄に日米琉諮問委員会を設置し、援助については沖縄住民の意思を反映して実施する─こと等を明らかにした。

日本政府が沖縄援助を開始した1963年度の日米両政府の援助額は71億4,831万円であった。そのうち日本政府は10億1,283万円(14%)、米国政府は61億3,543万円(86%)で米国の援助額は約9割近く占めていた。琉球政府は米国政府の援助金で戦後の沖縄復興を図ってきたが、日本政府が沖縄への財政援助を開始した63年の1人当たりの県民所得は301ドル、当時の為替レートで10万8千円,対日本の国民所得21万5千円のわずか2分の1の水準であった。
 
米軍統治下の27年間,琉球政府に対する援助金は、日本政府1,232億円(43%)、米国政府1,649億円(57%)であったが、日本政府援助金の8割は沖縄返還が確定した69年度以降の復帰対策に集中している。69年度以降は米国中心の財政援助から本土・沖縄一体化政策を進める日本政府の財政援助が増額され逆転した。

財務省「財政統計(予算統計等データー)」及び沖縄・北方対策庁「沖縄関係予算(内部資料)」によれば、米軍統治下時代(1947年〜1971年)の日本政府の一般会計歳出予算額は68兆9,577億円で、そのうち、沖縄関係予算は1,232億円で、国の歳出に占める沖縄財政援助の割合はわずか0.2%だった。


posted by ゆがふ沖縄 at 00:18| 米軍基地・評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする