2016年11月16日

土人発言の本質(4)

土人発言の本質(4)
日本政府の沖縄差別@

大阪機動隊員の土人発言と、米軍政下の日本政府の「原住民」発言は水脈で通ずるものがある。今回は沖縄戸籍を放置した国家の不条理について取り上げる。

沖縄戦で県土が破壊された沖縄県民は戸籍を失った。1946年9月19日、沖縄民政府は、終戦のとき住民動態と諸物資配給の基礎資料として各市町村長宛に「臨時戸籍事務取扱要綱」を発送し、臨時戸籍(仮戸籍)を作成するよう指導した。

日本政府は本土に在住する沖縄出身者の戸籍について、1948年9月30日、号外政令306号「沖縄関係事務整理に伴う戸籍、恩給等の特別措置に関する政令」を公布し、福岡法務局の支局で取り扱った。

沖縄は米軍支配下にあった。日本政府南方連絡事務所は、琉球住民麻戸籍回復義務を放置した。責任を放棄し、琉球政府に「戸籍整備法」を制定するよう迫った。

これが祖国日本の姿だった。沖縄に冷たかった。琉球政府は、日本政府の意向を受けて1953年11月16日、自らの責任で「戸籍整備法」を制定し、戸籍回復作業に着手した。日本政府の援助金はなかった。乏しい財源から捻出し、敗戦から8年後、沖縄ではようやく戸籍回復の法律ができたのだ。

戸籍整備に当たって各市町村では戸籍調査委員会を置き、各市町村長に対して申告させ、戸籍調査委員会の審査を経て、仮戸籍を整備して縦覧した。縦覧に対し異議の申し立てがないときに法務局長に申報し、法務局長の具申に基づき行政主席の認定によりはじめて戸籍が整備された。

琉球政府法務局の資料によれば、沖縄戦で滅失した戸籍数は11万3,817。1955年5月末時点で申告した臨時戸籍数は2万638、そのうち仮戸籍調整数はわずか1万9,652であった。渡嘉敷村、座間味村、伊平屋村、粟国村、渡名喜村、北大東村、南大東村は仮戸籍の調整もない状況であった。戦後10年が経過していたが、沖縄では無戸籍状態に置かれていた人々がいた。

市町村は戸籍回復に当たり、1954年3月31日から5月31日までの間に申告及び届け出を行わせたが、親、兄弟、親族などの証言に基づき新しい戸籍回復作業が行われた。

戦災による戸籍整備予算は国が全額負担すべきであるが、米軍統治下を理由に琉球政府への財政援助に躊躇した。琉球政府はカネがない。県民の戸籍を回復に米国のガリオア資金を使った。ガリオア資金とは戦災地復興資金のことである。

総理府の組織改正で南方連絡事務局が廃止され、特別地域連絡局に名称が変わり、はじめて技術援助を行うようになった。

特別地域連絡局は1958年琉球政府からの要請を受け、戦災による滅失戸籍回復の予算要求を行い1959年度から初めて技術援助費を計上した。予算内容は、沖縄全市町村の戸籍吏員を対象とした研修に本土から専門家派遣を行うための援助経費であった。

日本政府が戸籍援助費予算を計上したのは、琉球政府の戸籍整備法制定からすでに6年が経過していた。1970年5月、発足した「沖縄・北方対策庁沖縄事務局に私は採用された。倉庫で封印されていた「日本政府南連」文書に接し沖縄蔑視の文書を見て驚愕したことがある。

真実を見たものは、知らせるものでなければならない。真実を知ったものも知らせるものでなければならない。

なぜ今、このブログを書いているのか。土人発言の本質について封印した「琉球新報オピニオン担当者」の資質、感性、沖縄認識に驚愕したからだ。ジャーナリストの使命に疑問符が付く。島尻安伊子氏が沖縄担当相に就任した際、「公約破棄問題」を論壇で指摘したら封印された。今回、土人発言を擁護した松井一郎大阪府知事の資質と米軍政下の日本政府の「原住民」発言を指摘したら封印する。権力批判、政治家批判に目を向けようとしない思考は一体何だろうか。

連綿と続いている日本政府の沖縄差別の源流は「土人発言」と構造的に相通じるものがある。次回は国家の不条理について具体的事例を掲げる。


posted by ゆがふ沖縄 at 00:00| 米軍基地・評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする