2017年01月31日

日本政府「沖縄政策」を見つめて

日本政府「沖縄政策」を見つめて
〜崩れる沖縄振興の原点

那覇市与儀に日本政府の出先機関があった。米軍政下で唯一「日の丸」を掲げていた。日本政府南方連絡事務所(戦後処理)、日本政府沖縄事務所(財政援助)、沖縄北方対策庁沖縄事務局(復帰対策)と組織は変遷した。

日本政府のことを沖縄では「南連」と呼んでいた。日本政府の「代官所」という意味である。米軍と「日本政府」は治外法権的な存在だった。

1967年11月佐藤・ニクソン会談で本土・沖縄一体化政策を進め、沖縄住民の経済的・社会的福祉の増進を図ることが確認された。

1970年5月1日、沖縄北方対策庁沖縄事務局の看板が掲げられた。私は同局に採用され沖縄復帰対策を担当することになる。復帰対策とは日本と沖縄が差別のない一体化を図り、日本国民になることである。

沖縄復帰対策が本格化すると、日本政府の沖縄意識が初めて可視化されるようになった。

1972年5月15日、沖縄は念願の祖国復帰を果たす。前日の14日、沖縄北方対策庁沖縄事務局の看板が下ろされた。米軍政下で日本政府の役割を終えた瞬間だった。沖縄復帰対策はすべて完了したが感慨深いものがあった。復帰対策のカルテを見ながら励まし合ったことが懐かしい。

5月15日、祖国復帰を機転に新たな歴史の歯車が回った。旧日本政府職員は沖縄開発庁沖縄総合事務局に身分が引き継がれた。各省庁から優秀な頭脳集団が派遣された。彼らは返還後の沖縄振興に真剣に向き合っていた。

当時の沖縄総合事務局は情熱にあふれていた。初代沖縄開発庁長官・山中貞則氏は職員を激励した。

「27年間の異民族支配の歴史を償う」「復帰特別措置」「沖縄振興」「ドル切り替え」「戦後処理」について沖縄重視の姿勢を明示した。

ほんとうの沖縄の事情を知りたい・・・本土から派遣された職員は沖縄の歴史を学んでいた。県民生活についてずいぶん議論した。現実味を帯びていた。泡盛を飲みながら生命的「ビジョン」を語り合った。沖縄振興への責任と抱負の中に官僚の美学があった。

縦横無尽に走り回った。日本官僚のすごさを知った。土地に惚れろ! 仕事に惚れろ! 女房に惚れろ! 自治官僚の「サンボレ」精神を見た。官僚の本気度を肌で感じた。戦後の日本を動かしてきたのは官僚である。

復帰後の沖縄振興のレールを敷く。沖縄振興・・・我々がやらねば誰がやるか。沖縄総合事務局は沖縄振興の重力場であった。沖縄振興の台本を語り合った。

あれから45年・・・。今の沖縄はどうか? 官僚の沖縄を取り巻く環境は大きく変わり始めている。

この変化は何だろうか? その背後にあるのは何だろうか? 基地問題にせよ、沖縄税制にせよ、沖縄予算にせよ政治の見えざる手が沖縄に向いているのではないだろうか。

崩れる沖縄振興の原点、本土と沖縄の断層。沖縄に軋む基地問題、巧みな政治の手、意外な「実像」が見えてくる。
posted by ゆがふ沖縄 at 00:46| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする