2017年02月20日

■復帰時の沖縄予算の裏面史(13)

■復帰時の沖縄予算の裏面史(13)

復帰時の10.5か月予算編成は、日本の会計年度では初めてのケースである。沖縄の特殊事情を反映し1.5か月予算は米軍支配下にある特殊事情から財政援助で補てんした。

米国の財政年度は7月1日から翌年の6月30日で、琉球政府も米国に準じていた。日本の財政年度は4月1日から翌年の3月31日。会計年度に3か月のずれがあるので琉球政府の予算執行は2年度にまたがることになる。

1971年度(昭和46年度)の沖縄復帰対策予算は本土・沖縄一体化の総仕上げで大幅に増額された。1970年度の財政援助は一般会計、財投を含め330億1689万円であったが 1971年度は567億2017万円まで大幅に増額。最も重視したのは島嶼県として港湾漁港の整備であった。離島空港も整備されるようになった。

米軍政下の財政援助は離島重視が貫かれた。離島の一周道路も実現した。

復帰時の予算編成に当たり、沖縄の補助率が問題になった。山中貞則総理府総務長官は大蔵省の激しい抵抗を押し切り、沖縄にわが国最高の補助率を適用した。厚い壁を破った。政治家の技巧だった。

1972年度は沖縄返還初年度の予算である。予算編成に当たり、山中総務長官は「沖縄振興に国は全責任を持つ」ことを約束。1971年度の財政投資567億円であったが、1972年度沖縄開発庁に計上された10.5か月予算は762億円。高率補助、一括計上という手法を採った。

10.5か月予算で何をすべきか。ドルから円への通貨切り替えが優先課題となった。

首里城歓会門復元整備も予算化された。復帰記念事業費、琉球大学医学部設置に向けた調査費、国民体育大会施設整備等も予算化された。

沖縄への高率補助適用と予算の一括計上。時代の要請。山中貞則初代沖縄開発庁長官と沖縄の巡り合わせである。

■ ■
復帰対策を検討していたころ、山中貞則総理府総務長官は那覇市与儀「沖縄北方対策庁沖縄事務局」で次のように訓示した。私は末席で聞いた。

『米軍統治下で苦しんできた沖縄の歴史に対して政府は全責任を負う』
『諸君も今、非常に苦しい試練の時期であるが、沖縄復帰という輝かしい未来に向かって復帰対策には万全を期して対処してほしい』

軸足を沖縄に移した姿があった。強力な政治家だった。大きな感動と勇気を与えてくれた。

(本稿終わり)
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2017年02月17日

■復帰時の沖縄予算の裏面史(12)

■復帰時の沖縄予算の裏面史(12)

米軍政下の沖縄の政策金融は米国民政府が設立した「琉球開発金融公社」、琉球政府設立「大衆金融公庫」があった。琉球政府には5特別会計があった。

1971年3月、琉球政府立法院は、「沖縄の復帰に関する要請決議」の中で、沖縄の経済の振興開発を促進し、県民生活の安定向上に資するため、長期低利の資金を供給すること等により民間の投資及び一般の金融機関の行う金融を補完し、または奨励するために新たに政策金融機関を設置することを日本政府に要請した。

沖縄復帰対策要綱第2次分で沖縄の経済、社会の振興を促進するとともに住民生活の安定向上を図るため、沖縄振興開発公庫(仮称)を設立することを決定。

1972年5月13日、沖縄振興開発金融公庫法が公布され5月15日、復帰の日から施行された。

沖縄振興開発金融公庫法は、復帰後の沖縄の経済社会を再建するため、長期・低金利の資金を供給し、政策金融として民間経済を活性化するための法律である。本土の日本開発銀行、国民金融公庫、住宅金融公庫、農林漁業金融公庫、中小企業金融公庫、医療金融公庫、環境衛生金融公庫等の業務を一元的に行う政策金融公庫として資本金702億円で設立。

復帰時の1972年度沖縄開発庁一括計上予算で公庫出資30億円が予算措置された。
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2017年02月16日

■復帰時の沖縄予算の裏面史(11)

■復帰時の沖縄予算の裏面史(11)

沖縄復帰で道路の通行区分、交通方法の変更が問題となった。沖縄復帰対策要綱では、車両及び歩行者の通行区分は一定期間、現状どおり(車両は右、歩行者は左)とすることとしたが、本土並みにする必要があった。

沖縄は米軍支配下にあり、「車は右側通行」のアメリカ式の交通方法であった。道路交通に関する国際条約では1国1交通方法が原則である。右側交通から左交通に変わると、例えば、右側にある店や専門店は、バスや車の乗降位置が変わり買い物には支障をきたすことになる。ガソリンスタンドの位置も逆になる。補償問題が出たが、財政的対応は不可能であった。

右側通行からいきなり左側通行となると、人間の習慣はそう簡単には変えられないという意見もあり、暫定期間を置くこととした。国際条約では1国で1交通方法となっている。

1972年度の復帰時の予算で沖縄交通事業助成費として1億2838万円、道路整備費98億7千万円が予算化された。

1977年(昭和52年)9月20日、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第58条第1項の政令で定める日を定める政令が交付され、沖縄県の交通方法変更は1978年(昭和53年)7月30に実施され、日本土並みに「車は左側通行」に切り替えられた。

7月30日午前6時、全国の県警から応援を求め、沖縄県内の全ての道路に警察官が張り付き、「右側通行から左側通行」変更された。当日はドライバーの不慣れから接触事故が多発した。


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