2017年02月10日

■復帰時の沖縄予算の裏面史(7)

■復帰時の沖縄予算の裏面史(7)

復帰時の1972年度予算は10.5か月を計上(1972年5月15日〜73年3月31日)。1972年5月15日から沖縄予算は沖縄開発庁が一括計上した。

復帰対策で重視したのは、沖縄県民の所有するドルを円滑に円へ切り替えることであった。復帰時の沖縄予算762億円のうち、沖縄県民の純資産及び通貨確認業務1億6173万円、通貨等切り替え対策として260億円9265万円(34%)が使われた。

戦後沖縄の通貨は日本円を使っていたが、1948年7月に全琉球諸島の通貨としてB円(軍票1ドル=120B円)に統一された。1958年9月には米国ドルが通貨とされた。

沖縄で流通しているドルは1972年5月20日までに行うこととし、交換比率は1ドル305円とする措置が採られた。当初政府は1ドル360円交換を検討したが、投機ドルの流入を阻止できないことから1971年10月8日断念。10月9日に確認された沖縄県民の現金通貨と通貨制純資産に限り、復帰の際に行われる通貨交換比率360円との差額を差損保障給付金で払う措置が講じられた。

ドルから円へ交換された現金通貨実績(1ドル=305円)は1億347万ドル(円交付額315億5800万円)だった。預貯金換算額(1ドル=305円)は12億4254ドル(円換算額3789億8100万円だった)。

ドルから円への交換にあたり、県民の所持する差損(1ドル当たり55円)は、特別給付金として支給することを政府は保証した。特別給付金の支給事務は、沖縄総合事務局が担当し、1972年6月から73年3月までの間に完了した。特別給付金の給付実績は約294億円であった。

給付事務職員は沖縄銀行高橋支店へ勤務し、外部との接触は遮断された。米軍政下の沖縄で金持ちは税金逃れ目的で架空名義の預貯金事例が多数発生した。

給付額が莫大である事例が発生し、本人確認の住民票の提出を求めたが、架空の人物だった。補償漏れで物議をかもした。このとき、私は米軍政下の沖縄経済のアングラマネーを見ることになる。
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2017年02月09日

■復帰時の沖縄予算の裏面史(6)

■復帰時の沖縄予算の裏面史(6)

沖縄開発庁に計上される予算の特徴について述べる。第一は、国の負担または補助の割合を本土における北海道及び奄美の場合にとられていた、また現在とられているすべての割合を考慮し、いずれも下回らない率としたことである。

これは公共施設、生活環境施設、教育施設など各般にわたって立ち遅れている沖縄を、急速に本土並みの水準にまで引き上げるためにとられた措置であって、港湾、空港、道路などの事業については、国の負担または補助の割合は10/10とするなど、いずれも本土の例を大幅に上回るようになっている。

第二は、これまで沖縄はわが国の施政権が及んでいなかったことから、国の直轄事業は行われていなかったが、復帰後は、多目的ダム建設事業、道路、港湾ならびに空港建設事業の一部について、県知事などからの申請に基づき、国が直轄でこれを行う道を開いたことである。

第三の特徴は、前年度に日米間で合意した沖縄復帰対策費のうち、昭和47年度(1972年度)に計上を約束している経費の昭和47年5月14日までの所要額および復帰に際し、特別に措置を要する経費として、通貨等特別対策特別給付金260億円、対馬丸等遭難者特別支出金、らい患者特別給付金などがその内容である。

注:通貨等特別対策特別給付金
1971年10月8日現在で沖縄住民の持っている通貨および通貨制資産(預貯金等)を通貨交換の際、旧レートの1ドル360円の交換比率を実質的に保障するための措置である。
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2017年02月08日

■復帰時の沖縄予算の裏面史(5)

■復帰時の沖縄予算の裏面史(5)

那覇市与儀、沖縄北方対策庁沖縄事務局。日本政府南方連絡事務所、日本政府沖縄事務所の流れを見ると、国の沖縄政策はこの場所で練られた。日本政府沖縄事務所は、戦後初めて沖縄重視の姿勢を見せる。

指導課長は自治官僚・小林悦夫さん。小柄な方であったが、気持ちの広い方であった。俺はヤマトンチューであるが心はウチナンチューだよ。沖縄を意識しながら仕事をしていた。沖縄の方々と気さくに談笑し、酒を飲んでいた。

小林悦夫さんからこのような話を聞いた。

医療業務援助(無医地区への医師派遣)は、琉球政府の要請に基づくものだという。沖縄が米軍政下にあったからである。

小林さんは振り返る。日本政府沖縄事務所は、琉球列島米国民政府(USCAR)の了解を取り付けた。琉球政府への予算措置ではなく、本土政府による医師派遣業務だ。その後、技術援助は沖縄戦で焼失した戸籍回復について本土の専門家を沖縄に派遣し、市町村の戸籍事務担当者を対象とした研修が実施された。今でいう沖縄予算ではない。戦後処理として国の責任を実施するための予算だ。

技術援助は、立ち遅れていた沖縄との通信回復、医療、社会福祉の向上まで拡大していく。日本政府が重視したのは、無医地区への医師派遣だった。当時の沖縄はひどい状態だった。琉球政府の資料によれば、1955年7月時点で医師はわずか199人、歯科医師は58人。

日本政府沖縄事務所は沖縄の医師不足解消を目的に無医地区への本土派遣医師の医療援助を開始するようになった。分断された沖縄に日本から医師が派遣され保健衛生が改善されていく。

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