2017年02月08日

■復帰時の沖縄予算の裏面史(5)

■復帰時の沖縄予算の裏面史(5)

那覇市与儀、沖縄北方対策庁沖縄事務局。日本政府南方連絡事務所、日本政府沖縄事務所の流れを見ると、国の沖縄政策はこの場所で練られた。日本政府沖縄事務所は、戦後初めて沖縄重視の姿勢を見せる。

指導課長は自治官僚・小林悦夫さん。小柄な方であったが、気持ちの広い方であった。俺はヤマトンチューであるが心はウチナンチューだよ。沖縄を意識しながら仕事をしていた。沖縄の方々と気さくに談笑し、酒を飲んでいた。

小林悦夫さんからこのような話を聞いた。

医療業務援助(無医地区への医師派遣)は、琉球政府の要請に基づくものだという。沖縄が米軍政下にあったからである。

小林さんは振り返る。日本政府沖縄事務所は、琉球列島米国民政府(USCAR)の了解を取り付けた。琉球政府への予算措置ではなく、本土政府による医師派遣業務だ。その後、技術援助は沖縄戦で焼失した戸籍回復について本土の専門家を沖縄に派遣し、市町村の戸籍事務担当者を対象とした研修が実施された。今でいう沖縄予算ではない。戦後処理として国の責任を実施するための予算だ。

技術援助は、立ち遅れていた沖縄との通信回復、医療、社会福祉の向上まで拡大していく。日本政府が重視したのは、無医地区への医師派遣だった。当時の沖縄はひどい状態だった。琉球政府の資料によれば、1955年7月時点で医師はわずか199人、歯科医師は58人。

日本政府沖縄事務所は沖縄の医師不足解消を目的に無医地区への本土派遣医師の医療援助を開始するようになった。分断された沖縄に日本から医師が派遣され保健衛生が改善されていく。

posted by ゆがふ沖縄 at 00:45| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする