2017年03月31日

沖縄予算一括計上の本質㉖

沖縄予算一括計上の本質㉖
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

1次振興計画がスタートしてから4年が経過していたころ、山里将晃教授からゴルフに誘われた。山里教授は、ゴルフはプロ並みのスコアで、空手の達人でもあった。米国留学時代の話をよく聞かされた。初めてゴルフを覚えたのも山里教授の勧めであった。

専門委員会の事務方をしていたが、慰労のためにゴルフに誘ったのである。山里教授は金門クラブ(米国留学者の親睦団体)の会員である。復帰後の沖縄振興に情熱を燃やしていた。

沖縄の当面する課題としては、雇用労働、水資源、産業振興を中心に享受を受けた。私は沖縄総合事務局で復帰特別措置を担当していた。

沖縄の経済社会は特別措置がなされているにもかかわらず、産業振興がうまくいかず経済活動は総じて低迷していた。県内経済情勢は、公共事業に依存し建設関連業種を中心に持ち直しの傾向にあったが、生産、消費、観光は低調裡に推移しており、このため雇用情勢は一段と厳しさを増していた。

観光は、沖縄国際海洋博覧会後、急激に落ち込み宿泊施設の供給過剰を含め、観光問題は依然として解決しておらず、関係者は経営に苦慮している状況であった。その結果、完全失業率は6%を常に超え、全国平均の2倍強の高率となっていた。しかも米軍基地からは、軍雇用員の大量解雇がなされるなど県内労働力需給のアンバランスが拡大していた。日常生活では、断水が続き県民の間には水問題に対する不安や不満が広がっていた。

このような厳しい現実を踏まえて、専門委員会では目標年次における県勢の在り方を展望し、国としてとるべき施策と克服すべき課題について検討が始まった。そのような状況下で山里教授は、専門委員会で沖縄の将来に対し真摯で情熱あふれる論陣を張っていたのである。
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2017年03月30日

沖縄予算一括計上の本質㉕

沖縄予算一括計上の本質㉕
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

沖縄振興事業費は、本土を上回る高率補助が適用されている。補助率とは例えば公共事業に対する国の負担率である。復帰時にはほとんどの事業が10/10の高率補助であった。

現在の補助率は、河川改修事業費は9/10(本土1/2)、ダムをつくる場合には9/10(本土1/2)、海岸事業費補助9/10(本土1/2)、一般国道(直轄)9.5/10(本土2/3、高規格道路7/10)、県道9/10(本土1/2)、重要港湾9.5/10(本土5/10)、地方港湾9/10(本土4/10)、小中校舎の公立学校施設整備費負担金8.5/10(本土1/2)などである。

復帰後の沖縄に高率補助を適用したのは、当時の山中貞則・総理府総務長官が大蔵省(現財務省)の反対を押し切り実現した経緯がある。山中大臣と大蔵省の折衝経緯については、総理府で沖縄財政援助を担当していた櫻井溥さんが詳細に記録していた。私は桜井さんから入手した。概要についてはすでにブログで取り上げたので省略する。

復帰対策を検討していたころ、山中大臣は27年間の異民族支配下に対する償いとして、日本政府は少なくとも30年間は沖縄振興にすべての責任を負うと述べていた。

しかし、沖縄振興は40年経過しても所期の目的を果たしていない。振興以外に戦後処理の問題を抱え、現在第5次の振興計画が実施中である。

私は1次から3次の振興計画にかかわる機会があった。当時の日誌を振り返りながらブログを書いている。すでにブログで数回取り上げたが、沖縄振興に尽くした山里将晃琉球大教授の功績について述べたい。

1次振計中期展望と2次振計の策定について当時の古びた日誌を読みながらパソコンと向き合っている。

1次振計の中期展望は1975年10月から始まった。当時、琉球大学教授・山里将晃教授が重要な役割を果たしていた。

山里教授が琉球大学を定年退官した時には「山里将晃教授退官記念論文集」で「沖縄振興と山里教授の想い出」について執筆したことがある。

山里教授は、国の沖縄振興開発審議会専門委員として、1次振計中期展望の座長を務めていたと記憶している。山里教授はミシガン州立大学大学院修了という米国留学経験を活かしたグローバルな視点から沖縄を見続けてきた経済学者として、振興開発専門委員会でも中心的な役割を果たしていた。

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2017年03月29日

沖縄予算一括計上の本質㉔

沖縄予算一括計上の本質㉔
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

財政援助から沖縄振興予算へ移行した。第1次振興計画は1人当たりの所得格差を本土の8割水準を目標に掲げ工業化路線を重視した。

誤解を恐れず意見を述べる。1次振興計画の産業政策は失敗したと思う。製造業にこだわっていたら産業政策は解決しない。

第1次振興計画は、所得格差手段として工業化路線を採用し、本土から大型企業を誘致し、立ち遅れている第2次産業の構成比を30%に設定し、1人当たり県民所得を全国平均の80%に近づけることを目標に、本島東海岸に臨海工業立地を促進したが進展しなかった。

沖縄臨界コンビナート形成を打ち出し、石油精製、アルミ精錬、造船、修理ドックなどの工業誘致を想定。内陸型工業として食糧、繊維工業、窯業、土石などの工業誘致を想定。工業用水、電力の調達が難しかったことも一因する。

日本経済は石油危機を契機に、低成長へシフトし、生産基盤の必要はなくなった。沖縄は眼中にもなかった。プラザ合意以来、円高の進行で日本の製造業は賃金の安い海外へ移転し、沖縄の工業誘致政策は完全に失敗した。

県内外の経済情勢の変動により企業進出意欲の減退、公害、自然環境問題等価値観の変化により企業進出の拒否反応が起こった。

企業誘致に対する行政側の取り組みも弱かった。特別措置として設けられた工業開発地区、自由貿易地域が十分活用されなかった。特別措置が産業政策に結びつかなかったのである。

復帰後の基地従業員の解雇問題が続発した。振興計画で工業立地が進まず、県内雇用の場が困難な状況にもかかわらず、県内就職志向、本土就職者のUターン、進学率の低下等から若年層の高失業をもたらした。

結果的に、新規工業の立地に依存した政策に無理があった。
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