2017年04月12日

沖縄予算一括計上の本質㉞

沖縄予算一括計上の本質㉞
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

第2次振興計画がスタートしてから3年が経過していた頃、沖縄の経済社会については次のような現状認識が続いていた。
(1)所得格差は縮小したものの依然として全国最下位である。
(2)企業立地が遅れ、製造業のウェイトが低く、労働生産性の低い産業構造である。
(3)失業率が高く、全国平均の2倍である。
(4)財政依存度の高い経済構造である。
(5)県外収支においては、恒常的に大幅な移(輸)入超過になっている。

財政依存度が高く3次振興計画を検討していた1985年の財政支出は7815億円(名目)で、県民総支出2兆2190億円の35.2%を占め、全国平均の16.1%の2倍を超えていた。

同年の沖縄県の自主財源は、歳入全体の24%しかなく、全国(52%)に比べ財源が国に大きく依存している状況であった。特に依存財源のうち国庫支出金(振興開発事業費)の占める割合は38.1%(全国22.9%)となっており、沖縄開発庁の一括計上予算の果たす役割が再認識されていた。

改善が困難な沖縄経済の実情を前に、第2次振興計画後期の振興開発の在り方についての模索が続けられ、1985年2月、沖縄開発庁と沖縄県は「第2次振興計画後期展望連絡会議」をスタートさせたが、ポスト国体を控えて、沖縄振興開発事業費の伸び悩みが懸念されていた。財政分野のビッグプロジェクトが完了することと、高率補助の引き下げ及び産業振興の遅れ等への対応が求められていたのである。

第2次振計後期の公共投資の在り方としては、国体終了後の公共事業の落ち込みショックの緩和を基本としていたが、振興の遅れている部門の整備促進を図ることと、短期的に成果があげられること、実現可能性が高いこと、民間活力の誘発効果が高いこと等産業振興の面からも有利な新しいプロジェクトの着手に政策スタンスが置かれていた。

しかしその頃は、行財政改革が進められる厳しい状況にあって、2次振計後期をどう推進するかと苦慮している最中だった。財政依存経済体質の中で、沖縄振興開発のために投じられた予算は、1次振計以来1985年度予算まで2兆円を超えていた。しかし、依然として県民所得は全国最下位、失業率は全国2倍で、本土との格差是正、自立的発展の基礎条件の整備の目標達成に不安が残されていた。

posted by ゆがふ沖縄 at 00:14| 宮田裕の「沖縄振興論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

沖縄予算一括計上の本質㉝

沖縄予算一括計上の本質㉝
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

2次振興計画後半だった。3次振興計画が議論されていたが、摩訶不思議なことが起こった。沖縄県庁から「沖縄開発庁不要論」が出たのだ。

沖縄開発庁は沖縄振興の推進機関として設置された役所だ。沖縄振興計画の作成、沖縄振興予算の一括計上、戦後処理問題を所管する。1997年10月4日、琉球新報は、県首脳が「沖縄開発庁不要」発言を報じた。

沖縄県庁幹部の発言は沖縄に衝撃を与えた。

東京発の報道だった。沖縄開発庁統廃合問題で、行政改革会議の水野清事務局長(首相補佐官)が、県首脳の発言を根拠に「県側には開発庁存続の意向がない」とする内容を、公式・非公式の場で再三話していると報じた。

発言したとされる県首脳は「100パーセントそのような事実はない」と、全面否定。しかし、県首脳の同発言は行革会議による沖縄開発庁からのヒアリングや、地元沖縄からの存続要請の際に持ち出されたと報道。

3次振興計画を検討して最中に復帰プログラムを否定する。この記事を読みながら、驚愕した。

行革での沖縄開発庁の取り扱いについて、県は当初「中央省庁全体が再編される問題であり、県が開発庁問題だけで発言する段階でない」として、「静観」していたとも報道。

琉球新報は、水野事務局長の取材内容を可視化して紙面化したと思われる。報道によれば、1996年11月以前に複数の与党幹部が同席した非公式の会合で、県首脳は「沖縄開発庁は役割を終えた。開発庁の抱える振興費は、沖縄県のフリーハンドで使えることが効果的だ」など、開発庁存廃に関して意見を述べたという。この発言を根拠に、水野事務局長は再三「開発庁不要論」を県の意向として話していると証言する。

1997年6月の行革会議による省庁ヒアリングでは、組織存続を主張する沖縄開発庁に対し、「所掌事務も広く、進歩している」と評価する一方で、「3000億円は県に直接入れたいとの声も聞くが、そうした空気が県庁にあるのか」とただす場面があったという。

9月上旬に、経済団体、労働団体が初めて統一で存続要請活動を行った際にも、行革会議側は「県は『開発庁は役割を終えた』と話していた」と述べるなど、全県的運動の腰を折る形ではね返っている。

参加した要請団の1人は「過去の振興策から(県の)本音が出たと思う」としながらも、「廃止となれば沖縄振興が解決した印象を与え、今後に影響する。重大な発言だ」と懸念を示す。

県は、行革会議が集中審議に入る直前の8月半ばになって「開発庁の機能強化」を打ち出したが、早い段階から一丸となって北海道開発庁存続の運動を展開してきた北海道庁とは、対照的な動きとなっていた。
(1997年10月4日、琉球新報報道内容)

次回は、沖縄開発庁の3次振興計画に向けた取り組み状況について明らかにする。

posted by ゆがふ沖縄 at 00:06| 宮田裕の「沖縄振興論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

沖縄予算一括計上の本質㉜

沖縄予算一括計上の本質㉜
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

第2次振興計画は、1982年から10年間単純延長された。計画の目標、基本方向は全く同じである。基本方向で「地域特性を活かした国際交流の場に形成」が新しく盛り込まれただけだ。部門別推進方針は「観光レクリェーションの振興」「国際交流の場に形成」が追加された。

「国際交流の場の形成」が盛り込まれたのは、たしか琉球大学教授・山里将晃教授が米国の事例を持ち出し、沖縄発展戦略として国の専門委員会で主張していたと思われる。教授は西銘県政の政策ブレーンとして、沖縄県振興開発審議会の会長も務めていた。

専門委員会座長・山里将晃教授と札幌に出張したことがあるが、沖縄の国際化の構想に情熱を燃やしていた。当時、私は沖縄総合事務局で専門委員会の事務を担当していた。札幌のホテルのラウンジで夜景を見ながら沖縄の発展戦略として、コンベンションによる自立的発展の必要性を説いていた。酒は一滴も飲めない山里先生が初めて赤ワインを手にしていた。

コンベンションシティによる情報機能の強化、国際会議の誘致、交通体系の整備等で沖縄振興の起爆剤、沖縄振興の「顔づくり」、シナリオを聴く機会があった。

沖縄発展の新たな戦略として経済的な視点、沖縄の優れた人間環境の中から交流の場を創出してゆく発想は、情報化、国際化という時代の潮流を背景として、1987年「沖縄コンベンションセンター」として実を結ぶことになる。

隣接地にはビーチ、マリーナ、体育館、リゾートホテルがある。コンベンションはアジアと沖縄を結ぶノウハウだったのだ。

沖縄の活力をコンベンションに求める。沖縄の国際化を先読みする。アジアの中に沖縄を位置付ける。2次振興計画の行政に携わり、本質的な議論を聴き、戦略的反射神経を見た思いがする。

* * *
日曜の夜に想う。花咲く4月、自宅の木の芽はいくつか開いている。このブログを書きながら、2階の窓から南風原町方面の夜景を見つめているとさわやかな風が入り込む。斜面の光のライトがよく似合う。赤ワインを片手に、野中郁次郎他著『戦略の本質』に目を通し、感動する。

「戦略とは、何かを分析することではない、本質を洞察しそれを実践すること」
『戦略の本質』〜歴史に学ぶ逆転のリーダーシップ〜(日経ビジネス文庫)

小池百合子・東京都知事の愛読書『失敗の本質』(中公文庫)をこれから読もうと思う。
posted by ゆがふ沖縄 at 00:08| 宮田裕の「沖縄振興論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする