2017年05月08日

検証・沖縄大使(11)

検証・沖縄大使(11)

(歴代の沖縄大使と沖縄の動向)
■初代大使・原島秀毅[2] 任命1997年2月14日
在任期間1997年2月14日〜1999年5月11日

祖国復帰後の初代大使・原島秀毅氏の着任直後の沖縄の政治課題について述べたが、今回は原島大使の人となりについて述べたい。

1997年7月4日付の琉球新報は、原島大使が基地問題の解決に奔走する傍ら三線に励んでいる明るいニュースを報じた。原島大使の人柄、沖縄文化への理解が感情に浸透してくるので県民には読んでほしい。

◇ ◇ ◇
琉球新報の記事を引用して掲載する。

●外務省の原島大使に新型三線を寄贈
1997年7月4日付・琉球新報

【佐敷】「沖縄を理解するには三線が1番」。佐敷町の照喜名朝栄さん(45)が、基地問題の解決に奔走する傍ら、三線のけい古に励んでいた外務省沖縄事務所の原島秀毅大使に、石嶺公民館館長の前原信喜さん(45)を通じて、新型の三線をプレゼントした。

既に愛用のカンカラ三線で民謡三曲をマスターしたという原島大使は、「非常に感激。こんな素晴らしい三線をいただきプレッシャーを感じるが、何とか先輩たちに追い付いていきたい」と喜んでいる。

原島大使が三線と出会ったのは、前任地・チュニジア。昨年10月に同地で沖縄文化民間交流協会(玉城正保団長)の芸能公演が開かれたのが最初。前原さんも団員として参加していた。「沖縄の歴史、文化に直接触れ、その奥の深さを知った」と原島大使。前原さんとは「またいつか会いましょう」と別れたが、その1カ月後に、沖縄赴任が決定。「まさかと思ったが、何かの縁があるのだろう」と互いに驚いたという。

今年3月に同協会の関係者で祝賀会を開き、その際前原さんが原島大使にカンカラ三線をプレゼント。その後、大使は前原さんに弟子入りし、石嶺公民館の三線講座に入会。自宅では3日に1回のペースで練習に励んだ。

「三線の音色、メロディー、それがかもし出す世界に魅かれた。三線を弾いていると、素晴らしい世界の中にいるんだと感じる」と原島大使。師匠の前原さんは「原島大使にわれわれにが協力できることは何かと考えた。在任中に沖縄の文化、三線を学んでもらい、技術を持ち帰ってほしい」と話す。

これまでの練習で、工工四も読めるようになり、「そろそろ本物の三線を」と、前原さんの友人の照喜名さんが製作した三線をプレゼントすることに。この三線は、照喜名さんが長年考案していたオリジナル作品。現在ある三線の型の良い所を随所に取り入れたという。

「大使に『照喜名型』第1号を使ってもらい、光栄です」と照喜名さん。真新しい三線を手にした原島大使は「奥の深い歌、三線をいろんな人に紹介していきたい」と笑顔で語った。

* * *
原島大使着任後の沖縄の政治情勢は、1998年2月6日、大田知事が海上ヘリポート建設の受け入れ拒否を表明。政府と沖縄の分断が始まる。原島大使は激動の沖縄の政治情勢に直面したとき、「唄・三線」を学び沖縄の歴史、文化に直接触れ外交に当たられていたという。

政治の巡り合わせは不思議なものである。2月8日、名護市長選の結果、前比嘉市長の後継として岸本建男(自民推薦)が当選。岸本建男から立候補に当たり一杯飲みたいと電話があった。数名が呼ばれ立候補の相談を受けた。

那覇市立・寄宮中学の同窓を中心に「平成がじゅまる会」を立ち上げた。卒業生を中心に数百名の友情が燃えた。彼は当選後、苦渋の選択で辺野古受け入れを表明。その後、政府に裏切られることになるが、その経緯は、すでにブログで書いたので省略する(検索:金融特区を骨抜きにしたのは誰なのか?)


posted by ゆがふ沖縄 at 00:55| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする