2017年07月07日

半世紀後の沖縄振興計画はあり得るのか(29)

半世紀後の沖縄振興計画はあり得るのか(29)

■終わらぬ戦後処理(1)
〜未処理埋没不発弾2033トンにあと70年〜

いまから43年前の1974年3月2日、那覇市小禄の聖マタイ幼稚園そばの下水道工事現場で不発弾爆発事故が起こった。激震が沖縄総合事務局を襲った。

沖縄開発庁から指示が出た。即刻情報収集し報告せよ。事故は幼児を含む死者4人、重軽傷者34人を出した。沖縄2紙は大きく報道した。

工事現場で重機が基礎工事用の鉄杭(くい)を打つ中、旧日本軍が使用した機雷に触れ爆発したのだ。

豊かな沖縄県づくりの真っただ中に起こった事故だ。沖縄対策は、沖縄の歴史的、地理的な条件や米軍基地の存在などの諸事情を踏まえ、沖縄振興策が実施されたが、復帰したとはいえ、沖縄総合事務局は沖縄の戦後処理問題に直面した。総務部が担当した。

初代調査企画課長は桜井溥さん。米軍政下の沖縄に日本政府財政援助を担当し、沖縄を知り尽くした官僚だ。山中貞則総理府総務長官に仕え、山中さんが初代沖縄開発庁長官に赴任すると、30代後半の若さで沖縄に派遣され、ドルから円への通貨交換差損補償に取り組み、一件落着したら沖縄戦当時の不発弾爆発事故が起こったのである。

幼稚園で起こった爆発事故。土砂で人が生き埋めになり、重機や鉄杭が吹き飛んで車両や民家に直撃。課長と担当者が現場に飛んだ。その日幼稚園では、園児や父母ら約400人が参加しひな祭り会が開かれていたが、爆発音と地響きで園内に悲鳴がこだましたという。
posted by ゆがふ沖縄 at 00:21| 大学の窓から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする