2011年11月25日

忍従の歴史

シリーズ 「米軍統治下の沖縄政策」(10)

<忍従の歴史>

復帰から17年経過した89年3月17日、山中貞則は那覇市与儀の「南連跡地」にいた。自らの揮毫で「日本政府南方連絡事務所跡」の石碑を建てるためだった。

南連は連合国最高司令部の要請で設置されたが、日本政府は国の出先機関の名称に沖縄の表現を避けた。なぜ、「沖縄事務所」ではなく「南方連絡事務所」か、その理由は明らかではない。

「南連」の対沖縄政策を数々の資料を積み重ねて見えたことは、すでに述べたように@戦争で滅失した沖縄県民の戸籍回復義務の放棄、A援護法適用による差別、B戦後17年間の財政援助の空白にみられるように、敗戦後の国の責任放棄、構造的沖縄差別に由来する。

復帰直前の72年3月、総理府発行の「時の動き」で山中貞則は、戦後沖縄を総括し、沖縄への思いを語る。山中の沖縄認識に通底するのは悲惨な「忍従の歴史」に対する国の責任論である。彼はなぜ「南連」の石碑を建てたのか? その理由は明らかではない。復帰20周事業として1992年11月3日、「首里城正殿」が復元されたが、記念式典で山中は役人が作成した挨拶文には目を触れず、薩摩の方向を指さして「薩摩藩」が沖縄から搾取した歴史に謝罪した。

沖縄への財政援助を本格化させ、沖縄から国政参加を提言した日本政府沖縄事務所長・岸昌の言葉を政府官僚に届けたい。「日本国民が特権に擁護された官僚に治められていることは不幸なことであるが、特権意識の日本の官僚達が沖縄の復帰問題を取り扱うことは、もっと大きな不幸なことではなかろうか(岸昌『沖縄復帰の精神』)。

 来年は復帰40年。地方主権の時代を迎え官僚の一部には「沖縄を甘やかすな」論が再燃している。一括交付金等新しい沖縄振興の枠組みが模索する中で、沖縄振興行政の主体を県民の手に取り戻さなければならない。新しい沖縄振興の道さえ見えれば、沖縄の未来を生み出すことができる。そのぐらいの意志と能力は備わっている。

posted by ゆがふ沖縄 at 01:33| Comment(0) | 米軍統治下の沖縄政策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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