2011年12月28日

歴史の証言(2)

歴史の証言(2)

19701月から19727月までの激動期に、沖縄担当国務大臣・山中貞則氏を中心に、当時の沖縄・北方対策庁及び琉球政府の実務担当者の証言から。


日本銀行那覇支店の金庫
山中貞則氏の証言(総理府総務長官)
 聞き手:小玉正任

 (山中) 日本銀行の支店で一番大きい金庫をもっているのは、那覇支店だよ。どこの支店でもあんな本店に近いような金庫は持っていない。というのは、復帰時の通貨を交換するために持っていく日本円を保管するためだ。これは絶対に耐火、耐震、沖縄は地震のことは設計にはないが、地下で全部焼けてもそれだけは残っているようにして、運ぶのは自衛隊の米軍に第2次大戦で使った上陸用戦艦で時速6ノットなんだ。その周りを自衛隊がそろそろ付いていく。速いもんだから、行ってはこう帰り、行ってはこう帰り、上陸用戦艦が時速6ノットで現金をいっぱい積んで運ぶのを監視して、やっと沖縄の境界線を突破したときに、初めて米軍に引き継いで上から守ってもらった。


 要するに上陸用戦艦で運んだよ。そして岸壁に揚げて、まっすぐ日銀の那覇支店の作ったばかりの日本一大きな金庫の中に、現金を540億円かな。とにかく全部交換できるようにして、ドルチェックをして、1ドル360円交換して変えたわけ。今でも一番大きな金庫で持て余しているはずだよ(笑う)。

 ところで初代日銀那覇支店長は荒木なんとかとか言ったかな。

(小玉)荒木文雄です。

(山中)太田海軍少将が、亡くなった時は中将だけど、「沖縄県民かく戦えり、後生格別のご高配を賜らんことを」という電文を打った。それを受信したのが荒木一等兵層かな、二等兵層かな。

(小玉)いえ、予備学生ですから、海軍中尉じゃないですか。

(山中)そうかな。とにかくモールス信号を受信して、書いたのが荒木なんだよ。だから、日銀の初代支店長だけ、俺は注文がある。沖縄の大田玉砕少将の最後の打電を受信した男が日銀にいる荒木文雄だ。これを初代の那覇の支店長にしてくれといったら、荒木もご縁のあることというので、異例の抜擢か、あるいは冷遇だったのか知らんけど、とにかく初代は荒木というふうに決まったのは、大田中将の最後の打電を受信した、あれは無線士というのかな。


 さっきの日銀支店の大きな金庫の話のついでに、人事の問題でこういう大田少将と奇しき縁があって、荒木初代支店長が決まったんだよ。これはほとんど知られていないんだ。



posted by ゆがふ沖縄 at 01:29| Comment(0) | 歴史の証言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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