2011年12月29日

幻の「屋良建議書」

歴史の証言(3)

19701月から19727月までの激動期に、沖縄担当国務大臣・山中貞則氏を中心に、当時の沖縄・北方対策庁及び琉球政府の実務担当者の証言から。


幻の「屋良建議書」

 田辺博通氏の証言((沖縄・北方対策庁調整部長)

 

  聞き手 小玉正任


(小玉)19711016日、第67回臨時国会、いわゆる沖縄国会が始まって、1117日衆議院沖縄特別委員会で返還協定が採決された日、屋良主席が「復帰措置に関する琉球政府建議書」を携えて上京した。沖縄の革新グループが作成した、復帰対策要綱の「見直し案」が出てきた。琉球政府が設置した「復帰対策県民会議」の実質的なかじ取りをしていた瀬長浩さんとしては、県民会議の作業を無視しているとし驚き、困惑したようだ。
 東京サイドとしてもビックリ仰天でそのあたりの話を。

(田辺)法律案をまとめて臨時国会に備えて閣議決定する段階で、突如として復帰措置に関する琉球政府建議書()を送ってきた。それは寝耳に水だった。第1次から第3次まで要綱を決めていって、いわゆる復帰7法案もまとまった段階で、基本的に日本政府がいままで琉球政府と相談しながらやってきた措置と食い違っている建議書が出てきた。蒸し返しの議論とか、あるいは根本的に違った方向の措置を要する建議書になっている。

 最初に送ってきたのは、素案の段階で19711117日に屋良主席が持ってきた。その前の11にはプロジェクトチームが沖縄で発足している。それを受け取った我々は、愕然とすると同時に憤慨した。今までの我々の労苦を、一体何の聞いておったのか、沖縄側はどうしたんだという感じ、それ以上の感じだ。その処理に当たった瀬長さんはね。


 急に琉球政府の様子がおかしくなって、革新グループというか、それが急に集まって、民間人がプロジェクトチームに入っていた。瀬長さんの話を聞くと、瀬長さん安谷屋さんという復帰対策室のメンバーも、主席校舎、プロジェクトチームのところに呼ばれた。けれども、復帰対策室でやったことについてのひっくり返しだから、我々は意見を言わない、全然関与しないという形で相談したらしいがね。主席にもそういって、一言も口を挟まなかった。


 この建議書を、国会や総理に提出しようと、屋良主席が1117日に上京されたときに、羽田に着くころに、国会では、沖縄復帰特別委員会で関係法案が可決された。そして本会議に送った。結局、後の祭りで、何の議論にも至らなかった。あれは提出されたことにはなっていない。出す場所がなくなった意味かも知れない。非常に印象に残っていることで、瀬長さんも我々も残念であると同時に憤慨した。



posted by ゆがふ沖縄 at 09:56| Comment(0) | 歴史の証言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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