2012年06月01日

櫻井溥「沖縄を語る」(25)

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(25)


(ドルショック:そのB)

 当時は沖縄の返還、祖国復帰は国内の最大の政治課題であり、佐藤内閣の総仕上げでもあった。国会は「沖縄国会」と言われ、社会党などが「沖縄返還協定」の批准反対にまわり、テンションが高まっていた。

 横道節雄の息子の横道孝弘衆議院議員(元北海道知事)は、外務省の極秘電報を片手に政府の秘密外交を追求する。しかしこの電報は、外務省の女性秘書官が、毎日新聞の記者にそそのかされて持ち出したものと判明、国家公務員法違反や公文書窃取の刑事事件に発展。そこには男女の「情を通じて」などのオドロオドロした断面まで暴かれるおまけまでついた。


 そして1971年12月30日。衆議院自民党は、これ以上待てないとばかり、沖縄返還関連4法案を単独可決。そして翌72年1月7日の佐藤・ニクソン共同声明(スミソニアン会議)で、ようやく同年5月15日をもって沖縄は祖国に復帰すべし、と相成ったのであるが、話を戻すと、このような緊迫した中で、円・ドル差損対策が進められたのである。

 万が一、マスコミなどの外に話が漏れると事は重大である。山中大臣は、沖縄で流通している米ドルに対し、何らかの手を打とうとしていたのである。そのことは外務省はもちろん大蔵省に対してさえも、ごくごく山貞の必要とした人物以外には伝えられていなかった。断るまでもなく、我々事務方は、一切合切すべてが明るみに出て初めて知ったのである。

 71年10月。詳しい日付は忘れたが、朝日新聞に一寸気になる記事が出た。その真疑をめぐって他社からいろいろ照会があったが、大臣室は「それは事実無根」と一蹴。

 ただ何か不気味な雰囲気は、何となく感じ取ることがたびたびあった。副主席が時折上京し大臣室に入る。干ばつ対策だ、と言って我々事務方も大臣室に入る、が一向にその話はでない。記者にも「干ばつ対策としての援助要請」と説明してある。が、何と、これは完全にカムフラージュだったのである。

 大臣室に一同が集まり、「沖縄はまだあつくてねえ」など他愛のない話をしているうちに、大臣は「君たち、席をはずしてくれ」という。狐に包まれたようにお互いが顔を見回して「君たち」とはどの範囲を指すのか訝かったが、やがて大臣と副主席以外は全員大臣室の別室で待機せよ、と言われて部屋から追い出された。その頃には、控室に張っていた記者はもういない。

 私は大いに怒った。こんな忙しい時に、わけのわからぬまま大臣室に呼び出しておいて、仕事場には帰るな、別室で待て、とは何だ。大臣室の扉をうらめしそうに眺めてブツブツ言ったものの、長官も部長も皆子供のようにおとなしく唯黙りこくっている。



posted by ゆがふ沖縄 at 00:05| 沖縄復帰40年特集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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