2012年06月05日

沖縄と官僚・・・あれから40年

沖縄と官僚・・・あれから40年

 ─復帰40年に思う─

復帰40年を迎えた5月15日、私は那覇市与儀の「日本政府那覇南方連絡事務所の跡」の石碑の前に立っていた。ここは米軍統治下時代の日本政府が対沖縄行政をつかさどったところだ。現在の那覇警察署の場所である。沖縄で唯一「日の丸」を掲げ、敷地内は治外法権だったのだ。パーティで使用する高級スカッチウイスキー、ビールなどは免税品を使用する。年末には職員への高級スカッチウイスキーの配分もある。公用車に番号はなく「日本政府」のナンバープレートを掲げ、いわゆる領事館みたいな存在であった。


 夜は上司に誘われ、会員制のハーバービュークラブで免税のスカッチとステーキに浸ることが多かった。夜の迎賓館と呼ばれていた。この場所は、キャラウェイ高等弁務官が「沖縄の自治は神話」とスピーチし県民の「ひんしゅく」をかった場所でもある。

 南方連絡事務所は日本政府沖縄事務所から1970年5月、沖縄・北方対策庁沖縄事務局を経て1972年5月の沖縄返還時に沖縄開発庁沖縄総合事務局に組織再編され、2001年1月行政改革により内閣府沖縄総合事務局と変遷する。

 1970年5月から1972年5月14日まで私は沖縄・北方対策庁沖縄事務局で沖縄復帰に備え、外国資本導入の取り扱い、復帰対策要綱の事務を担当していた。琉球政府などの情報収集、つまり諜報活動をしていた。その内容を東京へ報告するのが主な仕事だった。
南連(与儀).jpg

復帰対策を巡って、ヤマト官僚から「沖縄を甘やかすな」という発言が多発した。驚愕することが多かった。日本政府沖縄事務所長・岸昌さんは「日本の官僚に沖縄の心が分かるだろうか」と揶揄し、沖縄タイムス論壇で「復帰準備の精神」を投稿し警鐘を発した。私は日本政府三つの大罪について本ブログで取り上げた。


岸さんの次の言葉は私の脳裏から離れることはない。

「沖縄が米軍に支配されていることは、不幸なことであるが、沖縄を知らない本土の官僚が沖縄の復帰対策に携わることはなお不幸なことである」


 この言葉は、復帰40年を迎えたいま、本土から沖縄総合事務局に赴任している一部の官僚にも当てはまる。沖縄を知らない世代の台頭、振興行政の風化が見られるからだ。

 日本政府はなぜ、沖縄に出先機関を設置したのか。GHQ(連合国最高司令部)は1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約を締結する直前の4月14日、日本政府に覚書を出した。日本政府は覚書を受け、米軍占領下の沖縄に国の出先機関を設置した。

 沖縄を占領した米軍は、沖縄住民の取り扱い、本土との渡航、遺骨収集などの戦後処理問題について日本政府の出先機関設置を求めたのだ。詳しいことは本ブログで取り上げたので省略する。

 1972年5月14、沖縄・北方対策庁沖縄事務局は解体された。米軍占領統治の国の沖縄政策は復帰により、使命を終えて幕を閉じたのである。翌15日、悲願の祖国復帰を迎えた。沖縄総合事務局が発足。旧日本政府職員は那覇市民会館で開催された「沖縄復帰記念式典」に動員された。

 すごい大雨だった。私たちは復帰式典会場の整理、VIPの案内をしていた。隣の与儀公園では「5・15抗議県民総決起大会」が開かれていた。「基地機能存続」「1ドル305円交換」など「沖縄処分」を訴える声がマイクから響く。大粒の雨に天が泣いたのだろうか。

 復帰記念式典は1500人が出席した。東京と沖縄は二元中継された。あれから40年・・・沖縄の苦悩は続く。

写真:日本政府沖縄事務所(那覇市与儀)


posted by ゆがふ沖縄 at 00:06| 沖縄復帰40年特集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする