2013年02月26日

沖縄復帰の証言(43)

沖縄復帰の証言(43)

〜政府の復帰施策に関する報告書から〜


◆隠れたエピソード@
語り手・小玉正任(元沖縄開発庁事務次官)

●ニューカッスル病
 ところで,二つだけ申し上げたいことがあります。その一つは,次のようなことであります。

山中先生は,現在,田中央畜産会会長,問全国肉用牛協会会長,田全国肉用子牛価格安定基金協会会長,田全国家畜人工授精師協会会長など,畜産関係の要職も兼ねておられます。沖縄の畜産会・会長は野島武盛氏がしています。野島氏は沖縄が本土復帰する直前は,琉球政府の農林部長をしており,沖縄県になってから,平良幸市知事のもと副知事をし,現在,(社)沖縄畜産会会長をしています。この野島氏とは私は復帰前から今日まで大変親しくつき合っており,あるとき野島氏から次 のような話を聞いたことがあります。


 昭和455月に沖縄本島の北部の羽地村稲嶺地区に突如,ニューカッスル病が発生,鶏が毎日何百羽と斃死する事態が起きた。輸入したヒナ2000羽が, この菌を持ち込んだらしい。家畜法定伝染病であるニューカッスル病の蔓延をくい止めるには,汚染地域への出入りの禁止とともに,鶏を殺処分する他はない。その数,7万羽以上。その補償費の捻出に,農林部長の野島さんは途方に暮れた。そのような折,山中大臣が屋良主席を伴って北部地域のダム視察をするということを耳にしたので,咄嵯に大臣に直訴しようと決心し,集落前の1号線(現在の国道58),ムシロ2000枚敷きつめ,車の消毒ということでホルマリンを散布しておいた。案の定,大臣は,ムシロとホルマリンの臭いで車を止められた。すかさず野島さんは,大臣に事情を説明し,家畜防疫費の補助を陳情した。

 大臣は,よく分かったと言われた。かくて,養鶏家に対する補償費を確保し,ニ ューカッスル病の蔓延を防ぐことに成功したのである。

 野島氏はしみじみと言いました。あのとき山中大臣の車が止まらなかったら,大臣がすぐ手を打って下さらなかったらどうなっていたか,あの時ほど山中大臣のありがたさを感じたことはなかったです, と。

●愛楽園
 それから, もう一つは,次のようなことです。これも北部,屋我地の話しです。

私が沖縄総合事務局に参りましたのは,昭和514月です。かねて山中大臣に,名護に行ったら,屋我地まで足を伸ばし,愛楽園を訪ねるように言われていましたので,早速参りました。ここは,国立のハンセン病の療養所です。私は,折りたたみの碁盤と碁石を買って持って行きました。


 昭和50720,沖縄国際海洋博の開会式に御臨席になった皇太子殿下,同妃殿下(今上陛下,皇后陛下)におかせられましては,その翌々日の722日に, この愛楽園に行啓され,親しく患者をお見舞いになったということで,患者の皆さんが感激して語ってくれました。皇太子殿下は,そのとき のお気持ちを琉歌にされています。謹んで次に御紹介いたします。

●皇太子殿下の琉歌

だんじよかれよしの 歌声の響

見送る笑顔 目にど残る


(謹訳)私たちの旅の安全を願うだんじよかれよしの 歌声がひびき,
見送ってくれた人々の笑顔が、いつまでの目に残っています。

だんじょかれよしの 歌や湧うえがたん

ゆうな咲きゆる島 肝に残て


(謹訳)私たちが立ち去ろうとすると だんじよかれよしの歌声が湧き上がりました。
ゆうなの花が、美しく咲いている島の人々のことがいつまでも心に残っています。


  ◆ ◆
参考までに愛楽園について解説します。
 ハンセン氏病療養所のことです。米軍統治下の沖縄では琉球政府立・愛楽園、宮古南静園がありましたが、1972年沖縄返還時に復帰対策要綱(第1次分)で国立に移管されました。
 

 日本本土のハンセン氏病患者は国の責任で治療が行われていましたが、沖縄は日本の施政権が及ばなかったので琉球政府が療養所を管理していました。もちろん琉球政府独自の予算で運営していましたが、日本政府の財政援助はありませんでした。


 沖縄が返還された1972年のハンセン氏病患者は全国1万1,175人、沖縄1,940人(全国の17%)の割合でした。1972年の新患者数は全国117人でした。沖縄は70人で、全国の60%を占めていました。

 米軍統治下の沖縄は、米国民政府の援助を受けながらハンセン氏病の治療が行われていました。本土から取り残されていた沖縄の医療事情。皇太子殿下は心を痛めまして愛楽園を訪れまして琉歌をお読みになりました。沖縄への思いが琉歌に現れています。(解説・宮田裕)



posted by ゆがふ沖縄 at 00:12| 歴史の証言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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