2011年11月14日

「沖縄振興の4点セット」

シリーズ 「沖縄経済の特異性はどうしてつくられたか」−(3)

<沖縄振興の4点セット>


 沖縄振興の特徴は、@政府が沖縄振興法を制定する、A内閣総理大臣府が沖縄振興開発計画を策定する、B沖縄にわが国最高の高率補助を適用する、C沖縄振興開発予算は内閣府が一括計上する─4点セットからなる。このような仕組みは、沖縄に与えられた特別措置である。


 なぜ、沖縄にこのような制度を適用しているのか? その理由は、沖縄の振興開発は「償いの心」が原点になっているからである。地域の振興計画は、県や市町村が担当すべきであるが、沖縄の振興開発は政府の責任で行われている。その理由は、沖縄の特殊事情にある。

 沖縄の特殊事情とは、
  @沖縄は第2次大戦最大の激戦地で全土が焦土と化し、沖縄
    県民は沖縄戦を生き抜き廃墟の中から過酷な歴史を歩ん
    できたこと、
  A戦後27年間、米軍の施政権下に置かれたこと、
  B沖縄県には過度な米軍基地が集中していること─

等から政府は「贖罪意識」すなわち「償いの心」で沖縄振興に責任を持つことを「沖縄振興開発特別措置法」の立法趣旨で明確にしているからである。

 政府は、本土との格差を早急に是正し、沖縄の地理的、自然的条件を生かした自立的発展の基礎づくりを行い、希望の持てる沖縄の将来展望を県民に明らかにするため、復帰後4次にわたる「沖縄振興(開発)計画」を策定し、沖縄振興に取り組んでいる。


 沖縄振興(開発)特別措置法は、本土において適用されている個別立法のすべての優遇措置を沖縄に適用しており、沖縄振興開発事業については内閣府が予算を一括計上し、全国一高い高率補助を適用しているのは、政府の責任で沖縄振興を推進することを明確にしているからである。

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2011年11月13日

復帰対策と「償いの心」

シリーズ 「沖縄経済の特異性はどうしてつくられたか」−(2)

<復帰対策と「償いの心」>

 1971年6月17日、日米間で沖縄返還協定が調印された。政府は72年の沖縄返還に向けて、沖縄復帰関係法案を立案し、71年10月16日に召集された第67回臨時国会(沖縄国会)に提出した。沖縄復帰関連法は、@沖縄振興のための「沖縄振興開発特別措置法」「沖縄開発庁設置法」「沖縄振興開発金融公庫法」の開発3法、A本土制度への移行を定めた「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」からなる。

 沖縄復帰関連法の立法趣旨は、沖縄に対する「贖罪意識」すなわち「償いの心」が原点になっている。71年10月に召集された沖縄国会で、山中貞則総理府総務長官は沖縄関連法案の立法趣旨説明に当たり、戦後沖縄の歴史認識に触れ、沖縄県民に謝罪した。その内容は、沖縄は先の大戦で最大の激戦地となり、全島が焦土と化し、沖縄県民十余万人の尊い犠牲者を出したが、戦後27年間米国の支配下に置かれた。日本国民と政府は、多年にわたる忍耐と苦難の歴史の中で生き抜いてこられた沖縄県民の心情に深く思いをいたし、「償いの心」を持って復帰関連法律を策定すると述べた。

 復帰直前の71年暮れ、山中総理府総務長官は沖縄で「米軍統治下に終止符を打つ」と明言した。長い間、苦難の歴史を歩んできた沖縄県民に対する謝罪の気持ちを述べ、政府の責任で復帰対策を進めていると説明した。
沖縄で復帰準備に取り組んでいる日本政府沖縄事務所職員に対する訓示では「戦後四分の一世紀余の長きにわたり我が国の施政権の外に置かれてきた沖縄を迎えるにあたって、忍耐と苦難の歴史の中で生きてこられた沖縄県民の方々の心情を深く思い、県民への償いの心をもって祖国復帰という歴史的な大事業の達成に全力投入せよ。そして諸君は今、非常に苦しい試練の時期であるが、沖縄復帰という輝かしい未来に向かって復帰対策には万全を期して対処してほしい」と激励した。

 沖縄は戦後27年間、米軍支配下に置かれ、暗くて不幸な歴史がある。山中総務長官訓示はこのような歴史認識のもとに復帰対策の基本として沖縄県民に「償いの心」を強調したものだった。

 1971年の沖縄国会で「新生・沖縄県」の誕生と建設を図るために、「沖縄振興開発特別措置法」「沖縄開発庁設置法」「沖縄振興開発金融公庫法」の開発三法と「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」の復帰関連法が制定された。
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2011年11月12日

米軍統治下の財政援助

シリーズ 「沖縄経済の特異性はどうしてつくられたか」−(1)

<米軍統治下の財政援助>

 1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。その直後の4月5日、米国海軍元帥C・Wニミッツの名において「ニミッツ布告」を発布し、「米国海軍軍政府」を樹立した。翌46年1月29日、「沖縄を日本から分離する覚書」により、沖縄は本土から分離され、米軍統治が始まった。1950年12月5日、米国海軍軍政府は、「琉球列島米国民政府(USCAR)」に改称され、高等弁務官制度のもとで独裁権を行使するようになった。


 琉球列島米国民政府は1951年5月1日、「琉球列島経済計画(1951年度〜1955年度)」を策定した。経済政策の目標は、「ガリオア資金を活用して戦前の生活水準に匹敵する水準の確立を図ること、またこの生活水準での自給確保の水準を達成すること、経済の金融機構を安定化すること」と述べている。経済計画期間中にガリオア資金(占領地域統治救済資金)226億3千万円の救済資金を沖縄に援助した。ガリオア資金は、沖縄復興として電力施設、水道施設、道路、港湾等の復興資金のほか、食料品、肥料、油脂類、薬品、建設資材、教育材料等に使われた。さらに産業復興を目的に船舶、漁船も提供されるようになった。


 さらに米軍は極東のキーストーンとして沖縄に基地を建設し道路、空港、港湾、ダム開発等の社会資本の整備、電力供給、食糧援助等のインフラ整備、民生安定事業等に取り組むようになった。


 一方、日本政府は敗戦から17年間、沖縄の経済復興に関心を示すこともなく財政援助をしてこなかった。これが原因で沖縄は本土との社会資本・生活基盤の格差、所得格差が生じた。日本政府は米国の要求を受け、1962年9月13日「日本政府の琉球政府に対する援助について」閣議了解し、翌63年度に初めて沖縄への財政援助を開始した。このことが沖縄の戦後復興が後れた大きな原因である。


 なぜ、日本政府は、沖縄に財政援助を行ったか? その根拠は1962年3月19日に発表された「ケネディ新沖縄政策」にある。新沖縄政策とは、沖縄が日本の一部であることを認め、
 @沖縄住民の福祉向上及び沖縄の経済発展を増進する、
 A太平洋のキーストーンとして沖縄の米軍基地を重視する、
 B日米協力体制の強化で沖縄基地を安定的に保有する─
ことが主な内容である。米国は沖縄統治の経済負担の一部を日本政府に求めた。


 日米協調路線を重視し、日本政府は財政援助を決定したが、援助の内容は、@琉球政府(市町村を含む)の諸施策、事業等の水準を本土並みに引き上げ、住民の所得の向上に努める、A沖縄に日米琉諮問委員会を設置し、援助については沖縄住民の意思を反映して実施することなどであった。


 日本政府が沖縄援助を開始した1963年度の日米両政府の援助額は71億4,831万円であった。そのうち日本政府は10億1,283万円(14%)、米国政府は61億3,543万円(86%)で米国の援助額は約9割近く占めていた。琉球政府は米国政府の援助金で戦後の沖縄復興を図ってきたのである。日本政府が沖縄への財政援助を開始した63年の一人当たりの県民所得は301ドル、当時の為替レートで10万8千円,対日本の国民所得21万5千円のわずか2分の1の水準であった。 


 米軍統治下の27年間,琉球政府に対する援助金は、日本政府1,232億円(43%)、米国政府1,649億円(57%)であるが、日本政府援助金の8割は沖縄返還が確定した69年度以降の復帰対策に集中している。

posted by ゆがふ沖縄 at 10:53| Comment(0) | 沖縄経済の特異性 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする