2015年12月15日

■普天間移設問題の増悪(18)

■普天間移設問題の増悪(18)

●青木官房長官記者会見質疑応答(官邸作成)A

(記者)今日は知事の方からは、軍民共用の話ですとか米軍の使用期限などの話はなかったのでしょうか。

(青木官房長官)その話については、知事の方から一切ありませんでした。

(記者)軍民共用とする点や15年の使用期限を区切るという問題について、改めてどのような見解を政府としてお持ちでしょうか。

(青木官房長官)今申し上げたように、今日の会議において15年の問題、軍民共用の問題についての知事の発言はありませんでしたけれども、前回、私(官房長官)が沖縄を訪問しました時に、知事の方から知事選の公約として、こういうことを公約いたしておりますので、知事としてはこれを一つ考えてもらわなければ困るという発言がありました。今日はございません。

(記者)その知事の意向に対して、現段階では、官房長官どのようにお考えでしょうか。

(青木官房長官)知事が選挙で公約したことは、非常に重いことだと考えておりますけれども、そういうことを含めて今後、検討する問題であろうというふうに考えておりまして、それをそのまま実行するかしないかということは、私どもとして何らご返事は知事にいたしておりません。

(記者)軍民共用ということに関しては如何でしょうか。

(青木官房長官)知事からはそういう公約であるので、自分としては是非そうしていただきたいという要望が、前回、沖縄訪問の際にありましたけれども、それについて私(官房長官)が今申し上げたように、いろんな15年という長い間には、国際情勢の変化や社会情勢の変化もあるだろうし、また、相手国の立場もあるでしょうから、知事さんの意見は意見として聞きましたけれども、返事は何らいたしておりません。

(記者)この問題を巡っては、今後、知事の移設先の表明ですとか、或は移設先とされた自治体がどう対応するのかという問題も、色々なプロセスを経なければいけないと思いますが、政府の基本的な認識としては、どの段階まで至ればこの問題が決着したというふうに言えるとお考えなのでしょうか。

(青木官房長官)今、お尋ねがありましたように、今日の会議を受けて、知事から恐らく候補地の決定をなされるであろうし、また、決定された地域のいわゆる態度の問題もあるでしょうし、そういうふうなことを私どもは、見守っておるところでございまして、全て知事にお任せをいたしておるところでございます。

(記者)敢えて確認しますが、普天間問題のそう言った意味においては、見守っていくという時に、年内に何らかの解決を図るというふうな見通しというのは、お持ちでしょうか。

(青木官房長官)私どもとしては、今日の会議を受けて一歩前進したという解釈をいたしておりまして、できるだけ早い機会に円満な解決が得られたとそういうふうに考えております。

(記者)特に年内にこだわらないという意味と解釈してよろしいでしょうか。

(青木官房長官)できるだけ早い機会に円満な解決が図られることを望んでおります。

(記者)確認になりますが、次の会議などについてはまだ正式に決まっていないでしょうか。

(青木官房長官)次の開催、14回目になりますが、については今のところ白紙の状態でございまして、県との連絡をしながら決定していかなければいかん問題だと、こういうふうに考えております。
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2011年11月25日

忍従の歴史

シリーズ 「米軍統治下の沖縄政策」(10)

<忍従の歴史>

復帰から17年経過した89年3月17日、山中貞則は那覇市与儀の「南連跡地」にいた。自らの揮毫で「日本政府南方連絡事務所跡」の石碑を建てるためだった。

南連は連合国最高司令部の要請で設置されたが、日本政府は国の出先機関の名称に沖縄の表現を避けた。なぜ、「沖縄事務所」ではなく「南方連絡事務所」か、その理由は明らかではない。

「南連」の対沖縄政策を数々の資料を積み重ねて見えたことは、すでに述べたように@戦争で滅失した沖縄県民の戸籍回復義務の放棄、A援護法適用による差別、B戦後17年間の財政援助の空白にみられるように、敗戦後の国の責任放棄、構造的沖縄差別に由来する。

復帰直前の72年3月、総理府発行の「時の動き」で山中貞則は、戦後沖縄を総括し、沖縄への思いを語る。山中の沖縄認識に通底するのは悲惨な「忍従の歴史」に対する国の責任論である。彼はなぜ「南連」の石碑を建てたのか? その理由は明らかではない。復帰20周事業として1992年11月3日、「首里城正殿」が復元されたが、記念式典で山中は役人が作成した挨拶文には目を触れず、薩摩の方向を指さして「薩摩藩」が沖縄から搾取した歴史に謝罪した。

沖縄への財政援助を本格化させ、沖縄から国政参加を提言した日本政府沖縄事務所長・岸昌の言葉を政府官僚に届けたい。「日本国民が特権に擁護された官僚に治められていることは不幸なことであるが、特権意識の日本の官僚達が沖縄の復帰問題を取り扱うことは、もっと大きな不幸なことではなかろうか(岸昌『沖縄復帰の精神』)。

 来年は復帰40年。地方主権の時代を迎え官僚の一部には「沖縄を甘やかすな」論が再燃している。一括交付金等新しい沖縄振興の枠組みが模索する中で、沖縄振興行政の主体を県民の手に取り戻さなければならない。新しい沖縄振興の道さえ見えれば、沖縄の未来を生み出すことができる。そのぐらいの意志と能力は備わっている。

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山中長官の謝罪

シリーズ 「軍統治下の沖縄政策」(9)

<山中長官の謝罪>

1970年5月、沖縄・北方対策庁沖縄事務局発足式で総理府総務長官・山中貞則は、日本の閣僚として初めて沖縄県民に謝罪した。沖縄事務局職員に対し、敗戦後の沖縄の歴史に触れ「復帰対策の基本は県民への“償いの心”が原点だ」と述べた。「日本政府は贖罪意識≠キなわち償いの心≠持って沖縄の復帰に全責任を持つ」と明言した。

沖縄は先の大戦で最大の激戦地となり、さらに戦後引き続き四分の一世紀余の長きにわたり我が国の施政権の外に置かれてきた。沖縄県民の方々の心情を深く思い、県民への償いの心をもって祖国復帰という歴史的な大事業の達成に全力を尽くす・・・大臣訓話は職員を奮い立たせた。

「諸君は今、非常に苦しい試練の時期であるが、沖縄復帰という輝かしい未来に向かって復帰対策には万全を期して対処せよ」・・・大臣訓示は職員に大きな感動と勇気を与えた。復帰作業は急ピッチで進められた。

1971年11月に召集された「沖縄及び北方問題に関する特別委員会」で「沖縄振興開発特別措置法案」「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律案」「沖縄開発庁設置法案」等復帰関連法が提出された。総理府総務長官・山中貞則は立法趣旨説明で戦後沖縄の歴史認識に触れ沖縄県民への「償いの心」を強調した。
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