2016年11月18日

土人発言の本質(6)

土人発言の本質(6)
日本政府の沖縄差別B

■「財政援助」を放置した日本
〜格差は国の責任〜

1958年5月、日本政府の対沖縄行政は「南方地域連絡局」から「特別地域連絡局」に組織が変遷、沖縄は南方地域から特別(特殊)地域として位置づけられる。日本政府沖縄事務所に援助業務課が設置され、沖縄への技術援助、医療援助、財政援助などを検討するようになった。琉球政府は、日本政府沖縄事務所に対して技術援助と財政援助を要請したが、沖縄事務所は米国民政府(USCAR)と折衝をしながら予算要求を決意し、翌1959年度予算で対沖縄技術援助費を計上した。

 技術予算は、沖縄戦で滅失した戸籍回復について本土の専門家を沖縄に派遣し、沖縄の市町村の戸籍担当者を対象とした研修費負担から始まった。敗戦から14年目に初めて戦後処理問題が予算化されたが、国の対沖縄戦災復興がようやく本格化したのである。

その後、技術援助は本土より立ち遅れた沖縄の経済、医療・社会福祉の向上、行政分野まで拡大されるようになった。特に医療分野は深刻な問題を抱えていた。終戦直後の沖縄の医師はわずか60人余で無医地区同然だった。

技術援助が開始された1959年7月時点で医師199人、歯科医師58人で沖縄は慢性的な医師不足に悩まされていた。1961年1月、日本政府は沖縄の医師不足解消を目的に無医地区への本土派遣医師等の医療援助を開始した。

さらに沖縄の基幹作物である農業分野及び模範農場への技術援助、本土・沖縄マイクロ回線の設定援助など通信分野まで拡大されるようになった。

1962年になると、沖縄を取り巻く国際環境に大きな変化が現れる。沖縄を統治している米国は日本政府に対し、沖縄統治経費の財政負担を日本政府に要求したのである。琉球政府発足以来、経済援助については放置されていた。このことは、わが国の財政史上、類例がなく沖縄の戦後復興が遅れた大きな原因となった。沖縄は、米軍統治下の特殊事情から日本の財政援助から取り残され、本土との社会資本・生活基盤の格差、所得格差が生じる原因となった。

なぜ日本政府は、沖縄に財政援助を行ったのか? その根拠は1962年に発表された「ケネディ沖縄新政策」にある。沖縄新政策は、沖縄が日本の一部であることを認め、@沖縄住民の福祉向上及び沖縄の経済発展を増進する、A太平洋のキーストーンとして沖縄の米軍基地を重視する、B日米協力体制の強化で沖縄基地を安定的に保有する─ことが主な内容であるが、米国は沖縄統治の経済負担の一部を日本政府に求めたのである。

日本政府は米国の要求を受け、1962年9月13日「琉球政府に対する援助について」閣議了解し、翌63年度に初めて沖縄への財政援助を開始する。この間、沖縄は米国民政府の財政援助に依存しながら戦後復興を歩んできたのである。日本政府は、日米協調路線を重視して沖縄に財政援助を決定したが、援助の内容は、@琉球政府(市町村を含む)の諸施策、事業等の水準を本土並みに引き上げ、住民の所得の向上に努める、A沖縄に日米琉諮問委員会を設置し、援助については沖縄住民の意思を反映して実施する─こと等を明らかにした。

日本政府が沖縄援助を開始した1963年度の日米両政府の援助額は71億4,831万円であった。そのうち日本政府は10億1,283万円(14%)、米国政府は61億3,543万円(86%)で米国の援助額は約9割近く占めていた。琉球政府は米国政府の援助金で戦後の沖縄復興を図ってきたが、日本政府が沖縄への財政援助を開始した63年の1人当たりの県民所得は301ドル、当時の為替レートで10万8千円,対日本の国民所得21万5千円のわずか2分の1の水準であった。
 
米軍統治下の27年間,琉球政府に対する援助金は、日本政府1,232億円(43%)、米国政府1,649億円(57%)であったが、日本政府援助金の8割は沖縄返還が確定した69年度以降の復帰対策に集中している。69年度以降は米国中心の財政援助から本土・沖縄一体化政策を進める日本政府の財政援助が増額され逆転した。

財務省「財政統計(予算統計等データー)」及び沖縄・北方対策庁「沖縄関係予算(内部資料)」によれば、米軍統治下時代(1947年〜1971年)の日本政府の一般会計歳出予算額は68兆9,577億円で、そのうち、沖縄関係予算は1,232億円で、国の歳出に占める沖縄財政援助の割合はわずか0.2%だった。


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2016年11月17日

土人発言の本質(5)

土人発言の本質(5)
日本政府の沖縄差別A

戦没者援護法・・・沖縄適用除外。沖縄タイムス報道に吸い込まれた。紙面を割いて戦後の沖縄の悲惨な叫び声を伝える。当時の沖縄タイムスの記事を読むと、ジャーナリストの歴史検証に学ぶことが多い。バックグランドには沖縄県民がいた。米軍政下の沖縄でジャーナリズムは生きていた。県民は気骨を感じていたのではないか。

ペンに情報をということだろうか。情報は「人なり」、沖縄タイムスの報道は現場に裏打ちされていた。

* * *
戦没者援護法の沖縄適用を求めて高齢のオジー、オバー、戦後の廃墟の中で夫を失った婦人、戦争孤児などが集まった。沖縄戦で失ったわが子や夫を思い出したかのような悲惨な意見が相次いだ。

日本政府は、1952年、4月30日に「戦傷者戦没者遺族等援護法」を公布し、4月1日に遡及して日本本土で適用した。しかし、沖縄への即時適用の悲願はかなえられることなく、沖縄は援護法適用から除外された。(日本政府部内資料)

日本政府は「戦傷者戦没者遺族等援護法」で沖縄を差別した。我が国唯一の戦場となり、沖縄住民十数万人の尊い人命が奪われたが、日本政府は沖縄の声を無視。人的被害、物的資源も失い戦後の荒廃のなかで、戦争で夫を失った婦人、遺族が立ち上がり「全琉球遺族族連合会」を結成し日本政府に援護法の即時適用を訴えた。

沖縄の悲痛な訴えは日本政府の心に届かなかった。そこには沖縄に対する差別があった。

援護法案審議の1952年3月22日「第13回・参議院予算委員会」で山下義信委員(社会党)は沖縄の援護法適用について質問した。

「今回の対象の中で、沖縄出身の戦死者あるいは樺太出身の戦死者など現在日本領土以外の形になっております地域の戦死者はどう処遇いたしますか。」

これに対し、厚生大臣・吉武恵市氏(国務大臣)は、「沖縄の方々の遺族に対しましては、沖縄はまだ日本の法律が適用できませんので、今回、この援護法も遺憾ながら適用がないわけであります。」と答弁、沖縄は原則として援護法が適用されないことを明らかにした。

援護法を適用するには日本国籍を有するものとしているが、援護事務に必要な戸籍は、1947年臨時戸籍取扱要綱により調整されていたが、その公証性に問題があるため、1953年11月16日、琉球政府は戸籍整備法を公布し戸籍の整備回復に着手。

戦争で滅失した戸籍は国の責任で行うべきであるが、援護法が公布された1952年4月30日時点で沖縄住民の戸籍について日本国籍としての公証性が問題視され、援護法の適用から除外されたのだ。

さらに、沖縄は戦後日本の行政からまったく切り離されたため、直ちにこれら諸法律を適用するのは困難とされた。琉球政府は日本防衛の犠牲になった沖縄の遺族を救うために、日本政府南方連絡事務所及び米国民政府に働きかけて、三者間で検討が行われ米国民政府の承認を取り付けた。

日本政府は1953年3月26日、「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現存するものに対し、「戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用する場合の取り扱いについて」通達を出し、沖縄にも援護法を適用した。

援護法の請求は南連事務所が窓口となった。死亡した者については、死亡当時におけるその者との身分関係を明らかにすることができる戸籍謄本の提出を求めた。

しかし、戦争で戸籍が滅失し請求は困難を要した。戸籍謄本が得られない方々は、請求者との身分関係に関する申立てを求めた。申立書には請求者の親族の証明書及び本籍地の市町村長の証明書の添付を義務付けたが、沖縄の特殊事情から請求事務は大幅に遅れた。

援護法が適用され、遺族弔慰年金が沖縄に伝達されたのは、法律制定から2年近く経過していた。

戦没者援護法の適用は、日本国民であることを条件としていたが、沖縄は戦災で戸籍が滅失し、住民の一部には無戸籍が存在し、「日本国民」として認定していない時期があり、そのため沖縄では援護法の適用が後れていた。

戦没者援護法は戦争犠牲者を救済する目的で策定されたが、祖国防衛の犠牲になった沖縄で戦没者援護法の施行が遅れたことは、米軍施政権下であったにせよ、日本政府は沖縄住民の要望に向き合ってこなかった。

日本政府の沖縄政策は強引な「辺野古移設」「高江ヘリパット問題」にも重なる。沖縄にきしむ巨大権力の壁は厚い。

次回は、戦後17年間見捨てられた「日本政府財政援助問題」を取り上げる。

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2016年11月16日

土人発言の本質(4)

土人発言の本質(4)
日本政府の沖縄差別@

大阪機動隊員の土人発言と、米軍政下の日本政府の「原住民」発言は水脈で通ずるものがある。今回は沖縄戸籍を放置した国家の不条理について取り上げる。

沖縄戦で県土が破壊された沖縄県民は戸籍を失った。1946年9月19日、沖縄民政府は、終戦のとき住民動態と諸物資配給の基礎資料として各市町村長宛に「臨時戸籍事務取扱要綱」を発送し、臨時戸籍(仮戸籍)を作成するよう指導した。

日本政府は本土に在住する沖縄出身者の戸籍について、1948年9月30日、号外政令306号「沖縄関係事務整理に伴う戸籍、恩給等の特別措置に関する政令」を公布し、福岡法務局の支局で取り扱った。

沖縄は米軍支配下にあった。日本政府南方連絡事務所は、琉球住民麻戸籍回復義務を放置した。責任を放棄し、琉球政府に「戸籍整備法」を制定するよう迫った。

これが祖国日本の姿だった。沖縄に冷たかった。琉球政府は、日本政府の意向を受けて1953年11月16日、自らの責任で「戸籍整備法」を制定し、戸籍回復作業に着手した。日本政府の援助金はなかった。乏しい財源から捻出し、敗戦から8年後、沖縄ではようやく戸籍回復の法律ができたのだ。

戸籍整備に当たって各市町村では戸籍調査委員会を置き、各市町村長に対して申告させ、戸籍調査委員会の審査を経て、仮戸籍を整備して縦覧した。縦覧に対し異議の申し立てがないときに法務局長に申報し、法務局長の具申に基づき行政主席の認定によりはじめて戸籍が整備された。

琉球政府法務局の資料によれば、沖縄戦で滅失した戸籍数は11万3,817。1955年5月末時点で申告した臨時戸籍数は2万638、そのうち仮戸籍調整数はわずか1万9,652であった。渡嘉敷村、座間味村、伊平屋村、粟国村、渡名喜村、北大東村、南大東村は仮戸籍の調整もない状況であった。戦後10年が経過していたが、沖縄では無戸籍状態に置かれていた人々がいた。

市町村は戸籍回復に当たり、1954年3月31日から5月31日までの間に申告及び届け出を行わせたが、親、兄弟、親族などの証言に基づき新しい戸籍回復作業が行われた。

戦災による戸籍整備予算は国が全額負担すべきであるが、米軍統治下を理由に琉球政府への財政援助に躊躇した。琉球政府はカネがない。県民の戸籍を回復に米国のガリオア資金を使った。ガリオア資金とは戦災地復興資金のことである。

総理府の組織改正で南方連絡事務局が廃止され、特別地域連絡局に名称が変わり、はじめて技術援助を行うようになった。

特別地域連絡局は1958年琉球政府からの要請を受け、戦災による滅失戸籍回復の予算要求を行い1959年度から初めて技術援助費を計上した。予算内容は、沖縄全市町村の戸籍吏員を対象とした研修に本土から専門家派遣を行うための援助経費であった。

日本政府が戸籍援助費予算を計上したのは、琉球政府の戸籍整備法制定からすでに6年が経過していた。1970年5月、発足した「沖縄・北方対策庁沖縄事務局に私は採用された。倉庫で封印されていた「日本政府南連」文書に接し沖縄蔑視の文書を見て驚愕したことがある。

真実を見たものは、知らせるものでなければならない。真実を知ったものも知らせるものでなければならない。

なぜ今、このブログを書いているのか。土人発言の本質について封印した「琉球新報オピニオン担当者」の資質、感性、沖縄認識に驚愕したからだ。ジャーナリストの使命に疑問符が付く。島尻安伊子氏が沖縄担当相に就任した際、「公約破棄問題」を論壇で指摘したら封印された。今回、土人発言を擁護した松井一郎大阪府知事の資質と米軍政下の日本政府の「原住民」発言を指摘したら封印する。権力批判、政治家批判に目を向けようとしない思考は一体何だろうか。

連綿と続いている日本政府の沖縄差別の源流は「土人発言」と構造的に相通じるものがある。次回は国家の不条理について具体的事例を掲げる。


posted by ゆがふ沖縄 at 00:00| 米軍基地・評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする