2017年05月19日

検証・沖縄大使(19)

検証・沖縄大使(19)

(歴代の沖縄大使と沖縄の動向)
■5代大使・宮本雄二[2]任命2004年12月7日
在任期間2004年12月7日〜2006年3月3日

宮本大使着任後の沖縄を巡る政治情勢を掲げる。

2005年2月19日、日米安全保障協議」委員会(2プラス2)がワシントンであった。在日米軍の兵力構成見直しに関する協議の強化を決定。

7月19日、金武町においてキャンプ・ハンセンのレンジ4陸軍複合射撃訓練場における実弾射撃訓練に抗議し、即時中止を求める県民集会が開催。

8月9日、牧港補給地区の国道58号線に隣接する土地(約3ヘクタールの返還に浦添市長が合意。

9月15日、日米合同委員会において、日本政府がレンジ4の米陸軍複合射撃訓練場の代替施設をレンジ16に近接する場所に建設し、予定されていた訓練を移転させることが合意された。

10月29日、日米安全保障協議」委員会(2プラス2)をワシントンで開催。共同文書「日米同盟:未来のための変革と再編」が発表された。

沖縄の政治情勢に沖縄大使が直接かかわることはないが、沖縄の実情を直接、外務省に伝達するのが沖縄大使の役割である。宮本大使は快く沖縄に向き合ったと思われる。沖縄を離任後中国大使に転出した。

宮本大使が沖縄を離れて10年近く経過してもマスコミは高く評価している。2015年8月25日付の日本経済新聞夕刊紙面で宮本大使の人となりを報道している。引用して掲載する。

●沖縄の心 元駐中国大使 宮本雄二
2015年8月25日付・日本経済新聞 夕刊

那覇市に外務省沖縄事務所がある。1995年の沖縄米兵少女暴行事件を契機として、基地問題に対する日本政府の対応策の一つとして設置された。私は、沖縄担当大使として2004年から2年足らず那覇に住み、所長を務めた。新しい任地に赴くといつも歴史から入る。早速沖縄の歴史を紐解(ひもと)いた。さまざまな歴史書を読み進めると、「沖縄の心」の深いヒダが見えてきた。

1609年の薩摩藩の琉球侵攻。1872年からの、明治新政府による琉球処分。1945年の沖縄戦。そして72年の沖縄の本土復帰。これらはすべて、そこに住む人たちが運命に翻弄され、大きな犠牲を払い続けてきたことを示す。琉球人だったのに日本人にされ、その日本を守るために地上戦を戦ったのに結局本土は降参し、51年、本土は独立を回復したのに、沖縄は20年後の72年に、ようやく米軍の直接統治から解放された。そして今度は、日本全体の安全を守るために日米安保が必要だというので、米軍基地の7割が沖縄に集中しているという現実。それから生じる日々の基地問題…。

沖縄のある方が、「2000年の沖縄サミットの開催で、ようやく自分が日本人だという確信を持てました」と語った。それまでは確信が持てなかったのだ。東京以外の初のサミット開催地に沖縄が選ばれたことが、いかに大きな意味を持っていたかが分かる。「沖縄の心」を理解していた小渕恵三総理の英断であった。沖縄の人たちは、感謝の気持ちを込めて、サミットが開かれた名護の地に、小渕総理の銅像を建立した。

沖縄とのお付き合いは、彼らの「心」を理解するところから始まる。そこを希薄化させてはならない

* * *
宮本雄二大使の沖縄への思いがひしひしと伝わってくる。その心情は米軍政下の日本政府沖縄事務所長・岸昌さんの心情に通底する。

岸さんは、沖縄の土を踏んだ感想を次の言葉で表現した。
「ここは日本か、違う米国の植民地だ」

復帰対策を検討していたころの話。岸さんは日本官僚が「沖縄を甘やかすな」と発言したことに喝破し、「沖縄の心」を説き、沖縄復帰関連法案の立案を進言。官僚の「沖縄認識のゆがみ」を映し出し、沖縄振興について「国の責任論」を山中貞則総理府総務長官に訴えた経緯がある。沖縄で自治の原点を学んだと語り、沖縄離任後、自治省官房長、大阪府知事に就く。大阪沖縄県人会に顔を出し、激励していたという。

「沖縄の心」を理解するのは、政治であり、行政である。歴史は後世に伝わっていく。

posted by ゆがふ沖縄 at 00:02| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月18日

検証・沖縄大使(18)

検証・沖縄大使(18)

(歴代の沖縄大使と沖縄の動向)
■5代大使・宮本雄二[1]任命2004年12月7日
在任期間2004年12月7日〜2006年3月3日

第4代沖縄大使・沼田貞昭氏は外交官として沖縄理解にかけていたが、後任の第5代大使に宮本雄二氏が任命された。

宮本大使は12月10日に着任、14日午後、那覇市の外務省沖縄事務所で就任後初めて記者会見。

前任の沼田貞昭大使は「米軍が日本を守る使命への理解」を求め、県民感情の琴線に触れる発言があった。宮本大使は「温度差埋めたい」と県民に寄り添う姿勢を示した。

2004年12月15日付・琉球新報報道によれば、14日の記者会見で沼田貞昭前大使が「(県民は)米軍に常に抗議するのではなく対話を」と発言したことについて「同僚としてコメントしたくない」としながらも「沖縄県の方々は60年間、米軍と一緒に生活し、いろいろな経験をしてきた。沖縄の皆さんにこうしろというのは僭越(せんえつ)だという気持ちを持っている」と述べ、前大使の見解とは一線を画す姿勢を示した。

基地問題については「難しい問題だが(在日)米軍の75%が沖縄に集中している現実、沖縄の人にもたらしている負担、長い歴史の流れの中での位置付けに思いをいたして考えていきたい」と述べた。

大使の仕事を「在沖米軍との交渉、外務省の業務、沖縄の状況を正確に東京に伝え、場合によっては私の意見を付すこと」とし、「米軍再編も非常に重要な時期を迎えた。沖縄との温度差、見方のずれを埋めるよう努力したい」と述べた。

自身がミャンマー大使や中国課長、二度の在中国大使館勤務の経験があることに触れ「沖縄は21世紀の発展戦略を持っている。その中でアジア太平洋は大きな意味を持つ。沖縄の経済発展、文化交流の進展に尽くしたい」と述べた。(2004年12月15日付・琉球新報)

テレビでも放映されていたが、宮本大使は外交官としての感性がひしひしと伝わってくる。ふがいな沼田前大使とは違うイメージがあった。


posted by ゆがふ沖縄 at 00:22| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月17日

検証・沖縄大使(17)

検証・沖縄大使(17)

(歴代の沖縄大使と沖縄の動向)
■4代大使・沼田貞昭[2]任命2003年1月17日
在任期間2003年1月17日〜2004年12月7日

2004年4月28日、普天間飛行場代替施設建設事業に係る環境評価手続きを開始(2007年8月7日廃止)。

7月30日、「第13回北部振興協議会」、「第10回移設先及び周辺地域振興協議会」開催。

8月13日、沖縄国際大学構内に在日米軍所属のCH―53Dヘリが墜落。9月12日、ヘリ墜落抗議・普天間返還県民大会へ炎天下のなか3万人結集。県民大会直前の9月9日、日本政府は普天間飛行場代替施設の護岸を設計するための必要なボーリング調査に着手したのだ。

沼田沖縄大使着任後の基地問題の経緯である。

2004年12月1日、沼田大使は離任に当たり、外務省沖縄事務所で記者会見。沖縄への対応力を失った発言に驚愕した。

離任会見で「最後のお願い」を述べ、「米軍が日本を守る使命への理解」を熱っぽく持論を展開したが、職業外交官の体質をさらけ出す始末だ。沖縄認識はゼロに近い。

だれのために「沖縄大使」はいるのか・・・そんな疑問が地元・沖縄で渦巻く。沖縄と政府、米軍との橋渡し役として誕生したが沖縄大使だ。影が薄い。4代目大使の沼田貞昭氏が離任会見で「米軍に抗議より対話を」と発言。稲嶺恵一知事は遺憾の意を表明。

朝日新聞は「何のための沖縄大使」か/存在意義に地元で懐疑の声噴出/離任会見で「米軍抗議より対話」と紙面を飾った。

沖縄タイムスは「沖縄大使は再考の時にきている」、琉球新報は、「誰のため、何のために沖縄に配置されているのか」と社説で指摘、沖縄大使の在り方に疑問符を突き付けた。

沖縄の歴史の無理解、座標軸を見いだせないまま、自己増殖を続けている沖縄大使の残像を見る思いだ。
posted by ゆがふ沖縄 at 00:19| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする