2017年05月10日

検証・沖縄大使(13)

検証・沖縄大使(13)

(歴代の沖縄大使と沖縄の動向)
■2代大使・野村一成[2] 任命1999年5月11日
在任期間1999年5月11日〜2011年2月23日

環境対策の基本方針は、地域の住民生活および自然環境に著しい影響を及ぼすことのないよう、最大限の努力を行うとある。

代替施設の機能および規模で明らかにしたのは、SACO最終報告における普天間飛行場移設に伴う機能および民間飛行場としての機能の確保を図る中で、安全性や自然環境に配慮した最小限の規模とすると記載されている。

稲嶺沖縄知事、岸本名護市長の普天間飛行場の辺野古移設表明で、新基地建設は具体化していく。政府は県民感情を刺激しないように、環境影響評価を実施するとともに、その影響を最小限にとどめるための適切な対策を講じる方針を示したが、地質調査の対策はなされてなく、ボーリング調査でさんご破壊が指摘され、反対運動に発展していく。

県民を説得するために、必要に応じて、新たな代替環境の積極的醸成に努めることとし、そのために必要な研究機関等の設置に努めると県民に寄り添う姿勢を見せたが、環境関連研究機関は設置されていなく、環境に対する配慮は見られない。

代替施設の使用に関する協定の締結も示された。代替地の安全対策および代替施設から発生する諸問題を講じるため@飛行ルート、A飛行時間の設定、B騒音対策、C飛行機の夜間飛行訓練、廃弾処理等名護市における既存施設・区域の使用に関する対策、Dその他環境問題、E代替施設内への地方公共団体の立入につき地方公共団体の意見が反映したものとなるよう政府は誠意を持って米国政府と協議を行うとあるが、米国政府と協議した形跡はない。沖縄県が立ち会って政府関係当局と名護市との間で協定を締結すると約束したが、実現していない。

このような重要な時期に復帰後2代大使・野村一成氏が着任したが、存在感はほとんどない。様々な立場から沖縄の意見等を聴取したことは見られないし、マスコミでその存在を取り上げられることもなかった。基地問題に沖縄大使がどう向き合ったのか? 沖縄に軋む米軍基地。揺ぎない県民の反対運動は激化していく。時代への対応力を沖縄大使は発揮しているのだろうか? 沖縄大使の姿は見えてこない。形骸化された日本外交の姿が見えてくる。沖縄大使の存在感は失速している。
posted by ゆがふ沖縄 at 00:26| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月09日

検証・沖縄大使(12)

検証・沖縄大使(12)

(歴代の沖縄大使と沖縄の動向)
■2代大使・野村一成[1] 任命1999年5月11日
在任期間1999年5月11日〜2011年2月23日

野村大使着任後の1999年11月19日、沖縄問題が動いた。「第13回沖縄政策協議会」において稲嶺恵一知事による普天間飛行場の移設候補地問題及び跡地利用の円滑な推進等に係る要望を受けて「政府の取組み方針」を了承。

11月22日、稲嶺知事が小渕総理に対して、沖縄県として普天間飛行場移設候補地を「キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」に決定したことを正式に表明した。

12月17日、「第14回沖縄政策協議会」において北部振興・移設先等振興・・跡地利用の3方針を了解するとともに、代替施設に係る安全・環境対策にについて「使用協定」を含め基本的な考え方が了解される。

12月27日、名護市長・岸本建男は普天間飛行場代替施設の受け入れを表明。翌28日、政府は普天間飛行場代替施設及び地域の振興について「普天間飛行場の移設に係る政府方針」を閣議決定したのである。

閣議決定した普天間飛行場代替施設は、軍民供用空港を念頭に整備を図ることとし、米国とも緊密に協議するとある。軍民共用空港は稲嶺知事のブレーンであった真栄城定守氏の発想だ。

建設地点は、「キャンプ・シュワブ水域名護市辺野古沿岸域」で今後、代替施設の工法及び具体的建設場所の検討を含めて基本計画の策定を行うとある。

基本計画の策定にあたっては、移設先及び周辺地域の住民生活に著しい影響を与えない施設計画となるよう取り組むとしている。

代替施設の工法および具体的建設場所については、地域住民の意向を尊重するとしているが現在まで無視され続けてきた。

posted by ゆがふ沖縄 at 00:11| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

検証・沖縄大使(11)

検証・沖縄大使(11)

(歴代の沖縄大使と沖縄の動向)
■初代大使・原島秀毅[2] 任命1997年2月14日
在任期間1997年2月14日〜1999年5月11日

祖国復帰後の初代大使・原島秀毅氏の着任直後の沖縄の政治課題について述べたが、今回は原島大使の人となりについて述べたい。

1997年7月4日付の琉球新報は、原島大使が基地問題の解決に奔走する傍ら三線に励んでいる明るいニュースを報じた。原島大使の人柄、沖縄文化への理解が感情に浸透してくるので県民には読んでほしい。

◇ ◇ ◇
琉球新報の記事を引用して掲載する。

●外務省の原島大使に新型三線を寄贈
1997年7月4日付・琉球新報

【佐敷】「沖縄を理解するには三線が1番」。佐敷町の照喜名朝栄さん(45)が、基地問題の解決に奔走する傍ら、三線のけい古に励んでいた外務省沖縄事務所の原島秀毅大使に、石嶺公民館館長の前原信喜さん(45)を通じて、新型の三線をプレゼントした。

既に愛用のカンカラ三線で民謡三曲をマスターしたという原島大使は、「非常に感激。こんな素晴らしい三線をいただきプレッシャーを感じるが、何とか先輩たちに追い付いていきたい」と喜んでいる。

原島大使が三線と出会ったのは、前任地・チュニジア。昨年10月に同地で沖縄文化民間交流協会(玉城正保団長)の芸能公演が開かれたのが最初。前原さんも団員として参加していた。「沖縄の歴史、文化に直接触れ、その奥の深さを知った」と原島大使。前原さんとは「またいつか会いましょう」と別れたが、その1カ月後に、沖縄赴任が決定。「まさかと思ったが、何かの縁があるのだろう」と互いに驚いたという。

今年3月に同協会の関係者で祝賀会を開き、その際前原さんが原島大使にカンカラ三線をプレゼント。その後、大使は前原さんに弟子入りし、石嶺公民館の三線講座に入会。自宅では3日に1回のペースで練習に励んだ。

「三線の音色、メロディー、それがかもし出す世界に魅かれた。三線を弾いていると、素晴らしい世界の中にいるんだと感じる」と原島大使。師匠の前原さんは「原島大使にわれわれにが協力できることは何かと考えた。在任中に沖縄の文化、三線を学んでもらい、技術を持ち帰ってほしい」と話す。

これまでの練習で、工工四も読めるようになり、「そろそろ本物の三線を」と、前原さんの友人の照喜名さんが製作した三線をプレゼントすることに。この三線は、照喜名さんが長年考案していたオリジナル作品。現在ある三線の型の良い所を随所に取り入れたという。

「大使に『照喜名型』第1号を使ってもらい、光栄です」と照喜名さん。真新しい三線を手にした原島大使は「奥の深い歌、三線をいろんな人に紹介していきたい」と笑顔で語った。

* * *
原島大使着任後の沖縄の政治情勢は、1998年2月6日、大田知事が海上ヘリポート建設の受け入れ拒否を表明。政府と沖縄の分断が始まる。原島大使は激動の沖縄の政治情勢に直面したとき、「唄・三線」を学び沖縄の歴史、文化に直接触れ外交に当たられていたという。

政治の巡り合わせは不思議なものである。2月8日、名護市長選の結果、前比嘉市長の後継として岸本建男(自民推薦)が当選。岸本建男から立候補に当たり一杯飲みたいと電話があった。数名が呼ばれ立候補の相談を受けた。

那覇市立・寄宮中学の同窓を中心に「平成がじゅまる会」を立ち上げた。卒業生を中心に数百名の友情が燃えた。彼は当選後、苦渋の選択で辺野古受け入れを表明。その後、政府に裏切られることになるが、その経緯は、すでにブログで書いたので省略する(検索:金融特区を骨抜きにしたのは誰なのか?)


posted by ゆがふ沖縄 at 00:55| ◆「時の動き」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする