2013年05月13日

日本は国家という名に値しない

日本は国家の名に値しない

〜対米請求権放棄と沖縄の屈辱〜


 1945年4月、米国は沖縄を占拠し海軍政府を樹立した。軍隊を常駐し、琉球列島で米国の支配権を行使。1950年6月、朝鮮戦争勃発を契機に1950年から53年にかけて巨大な基地建設が始まる。この間の基地建設資金は2億7千万ドル(当時の為替レートで970億円)。現在の貨幣価値に換算すると約3兆円。この金は敗戦後、疲弊した日本の建設業に流れ、日本のドル獲得、経済復興の礎となった。
沖縄の海兵隊7.jpg
 急ピッチで沖縄の米軍基地の原型ができあがる。米ソの冷戦構造下で沖縄は「太平洋の要石」と呼ばれた。極東の浮沈母艦ともいわれた。米軍は「銃剣とブルドーザー」で県民の土地を強制接収するようになった。植民地沖縄の悲劇の始まりだ。

 1952年4月28日、沖縄を分断し、サンフランシスコ講和条約で日本は独立する。主権回復を祝い、先月28日には政府式典を開催した。その日は、沖縄を米軍支配下に差し出した「沖縄屈辱の日」である。

 米軍は基地建設目的に耕地、居住地、山林を奪った。日本は講和条約で独立したが、その際、日本政府は米軍が沖縄に与えた人身被害(殺人、強姦、事件・事故等)、財産破壊等の損害賠償を放棄してしまった。沖縄の人権被害、財産の損失等の請求権は放棄すると宣言したのだ。

 沖縄は踏みつけられたのである。日本は沖縄にとって国家といえるのか。

  ◆ ◆

日本政府の不条理な沖縄政策について、琉球新報に投稿したら掲載された。以下、ブログで紹介する。


2013512日付・琉球新報「論壇」

講和条約で対米請求権放棄

 不条理な戦後沖縄の屈辱

      宮田 裕


428日付・本紙は、19714月米軍基地から派生する対米請求権問題の解決を討議した外務、大蔵、法務など8省庁が対米交渉の難航で対米請求権を放棄したと報じた。

米軍統治下の沖縄では布告・布令により米軍人等の不法行為で人身、財産、基本的人権の侵害が多発していたが、日本政府は沖縄県民の対米請求権を「対日平和条約」及び「沖縄返還協定」において放棄し、県民を屈辱してきたのである。


 米軍が沖縄に被害をもたらされた漁業被害は講和条約前と講和条約後を含め、649億2572万円と水質汚濁による請求事案2億1292万円、計651億3864万円であった。日本政府は個々の損害の実態が確認できないことを理由に県民の要求を却下し、特別支出金(見舞金)30億円で幕引きした経緯がある。


 人身被害については、1972年5月、沖縄返還時に日本政府は「沖縄の復帰に伴う防衛庁関係法律の適用の特別措置等に関する法律」を制定。同法第3条の規定に基づき米軍犯罪の補償漏れについて沖縄県民の不満を抑えるために「特別支出金」を出して政治決着した。

 ところが、講和条約発効(1952年428日)から米軍統治下の1972年5月14日までに発生した被害は救済漏れがある。

1947年8月3日、北谷村で起こった殺人事件、1948年8月6日、伊江島の弾薬庫処理船爆発事件(死亡者11人に1人当たり7千B円支払いで解決)、1950年与儀ガソリンタンク落下事件1人死亡、3人重傷(保証なし)、1951年10月20日那覇市牧志でガソリンタンク落下炎上事件(親子死亡、家は全焼・米軍補償拒否)などである。


 銃剣とブルドーザーで沖縄県民の土地を強制接収し米軍基地を建設した土地の損害もあるが、個々の被害が特定できない理由で補償をしていない。土地被害について日本政府が採った解決策は、沖縄県に「社団法人・沖縄県対米請求権事業協会」を設立させ、協会の基本財産造成を目的として、総額120億円を交付し問題解決を図ったが、土地強制摂取に伴う損害の根本的な解決にはなっていない。

 本紙は、「沖縄側の要請に基づき、日本政府は米国に対する補償請求を、講和条約発効前と講和後の人身被害、軍用地の復元、漁業、つぶれ地、基地公害など10項目に分類し、折衝したが米側の姿勢は崩せなかった」と報道している。外務省、防衛省は沖縄の特殊事情から沖縄開発庁の所管だとして責任転嫁した。

座標軸のない日本外交が沖縄を苦しめてきたが、沖縄の主権は今も回復していない。







posted by ゆがふ沖縄 at 00:06| 日本政府の沖縄差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月06日

戸籍・援護法で沖縄差別

戸籍・援護法で沖縄差別

〜分断され、踏みにじられた主権〜


■構造的差別には必ず生れ出るものがある。
悲しみの極みに「構造的差別」がある。
それでも「構造的差別」は沖縄に刻まれていく。


南連(与儀).jpg 
 沖縄返還2年前のことだった。1970年5月、沖縄北方対策庁が発足した。私は沖縄事務局に採用された。沖縄の「復帰対策」及び「外国資本導入」問題に携わった。まもなく米軍支配が終わる。世代わりの歴史的仕事に心が躍った。

日本政府の沖縄政策の過去を知るために倉庫で「南連」時代の内部文書に触れる機会があった。私が見たものは、「屈辱」された対沖縄政策だった。


 南連の文書は外部に漏れることはなく戦後、封印されてきたのだ。沖縄県民の人権が踏みにじられていたことを知り、喉に「とげ」が刺された思いで動揺した。私は極秘にコピーをしていたことがある。

 南連文書は、もう時効だろう。歴史の証言として、沖縄県民に伝えなければならない。これに眼を瞑れば歴史を欺くことになるからだ。その一部について沖縄タイムス「論壇」に投稿したら、55日に掲載された。参考までにブログで紹介する。

  ◆ ◆
201355日付・沖縄タイムス「論壇」

戸籍・援護法で沖縄差別
〜分断され、踏みにじられた主権〜
  宮田 裕

 米軍統治下の沖縄に日本政府の「南連」があった。正式には「日本政府南方連絡事務所」のことだ。南連設置にはGHQが関与していた。1952414日付でGHQが日本政府に出した「覚書」には「琉球諸島への日本国民の渡航、琉球諸島在住者の日本への渡航を取り扱うため準領事館事務を遂行し、日本政府連絡事務所を設置」せよ─と記載されている。「覚書」を受けて日本政府は195271日、日本政府南方連絡事務所を設置した。

 1954217日、衆議院外務委員会。「南連」について日本政府は@琉球住民は南連に陳情を受ける権限はない。A沖縄に滞在する本土国籍を持っている人は、保護機能があり、不法逮捕、拘留された場合には米合衆国政府の機関と協議することができるが、琉球住民に対しては米軍から弾圧、不当な取り扱いなどがあっても、日本政府はこれを取り上げて米国民政府と交渉する機能は与えられていない─と答弁。日本は主権を回復したが、沖縄は分断され屈辱を受けていたのだ。

 南連は沖縄の戸籍を放置した。琉球政府に「戸籍整備法」の立法化を要請。琉球政府は19531116日、「戸籍整備法」を制定し、滅失戸籍の回復に着手する。

琉球政府は、戸籍回復について財政支援をもとめたが、1959年度予算に技術援助費として、専門家派遣研修経費を計上しただけで全額負担は認めなかった。


 戦没者援護法差別の例。1952322日「参議院予算委員会」で戦没者援護法の沖縄適用をめぐって吉武恵市・厚生大臣は、「沖縄の遺族に対しては、沖縄はまだ日本の法律が適用されていないので、援護法は遺憾ながら適用できない」と答弁。

1952430日、「戦傷者戦没者遺族等援護法」を制定し日本本土は41日に遡及して適用したが沖縄は除外された。沖縄の臨時戸籍、未整備戸籍等から日本国籍としての認証に疑義を唱えたのだ。


 戦争で夫を亡くした女性、遺族が立ち上がった。全琉球遺族族連合会は援護法の即時適用を訴えたが届かなかった。

琉球政府は米国民政府(USCAR)に要請し承認を取り付けた。これを受けて日本政府は1953326日付で「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に対し、「戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用する場合の取り扱いについて」通達を出し、沖縄はようやく援護法が適用されるようになった。紆余曲折し、遺族弔慰年金が給付されたのは法律制定から2年近く経過していた。


 分断された沖縄の主権は踏みにじられていたのである。


写真:日本政府「南連」・那覇市与儀
(現在の那覇警察署・石碑がある)







posted by ゆがふ沖縄 at 00:03| 日本政府の沖縄差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月03日

日本政府の沖縄差別C

■日本政府の沖縄差別
 宮田リポートC

◎本土官僚「沖縄を甘やかすな」発言に
 日本政府沖縄事務所長「沖縄の心を説く」


 197051日、沖縄・北方対策庁が発足、初代沖縄事務局長に自治省官僚の岸昌さん(沖縄勤務後は自治省官房長、大阪府知事を務める)が就任。岸さんは1968年年6月、日本政府沖縄事務所長として沖縄に赴任、復帰対策の指揮を執った。沖縄の現実に心を痛めた岸さんは19694月、沖縄タイムス論壇に『沖縄復帰の精神』を寄稿する。

 米軍施政権下の沖縄で本土から赴任した官僚は、沖縄の歴史認識に欠落し、特権意識で沖縄を見ていたからだ。岸論文は日本官僚の沖縄政策について「沖縄の心」を鋭く指摘した。

 その一端に次の会話がある。

「もう、沖縄へは十数回きている某省のA課長が私の事務所を訪れた際、次のような質問を発した。復帰準備委員会で話しあったとき、BC両氏とも、沖縄側からは復帰に際して暫定措置や特例措置の要求がたくさんくるだろうが、甘やかさないで厳しい態度で望むべきだが岸所長はどう思うか」。

 岸さんは次のように反論した。「人類はじまっていらいの歴史からみれば、5年や10年は瞬間に等しい。あっという間に過ぎ去ってしまう時間といってよい。そういうつかぬ間の「特別措置」を惜しんで、沖縄復帰を再び”琉球処分”の再現を思わせる行政は、決して当を得たことではない・・・。沖縄の心をどれだけ理解することはその人の能力のほか、さらにいうならば、人生観の問題。古い言い方をすれば政治哲学としていわゆる王道をとるか覇道とるかの違いだろう」と答えたら「A課長は、わかったのかどうか複雑な表情をした」。二人の会話はこれで終わった。岸さんはA課長の質問が象徴的になにかをもっているように思え、心の中を次のような自問自答する。

 「大学を出て特権意識に擁護されたキャリアの中には、同僚を蹴落としながらひたすら立身出世のエリートコースを走っている。日本の官僚に真の沖縄の心がわかるだろうか。困窮と挫折と不安の中で、沖縄が米軍に治められていること自体大きな不幸というべきだが、特権意識の官僚達が沖縄の復帰問題を取り扱うことは、もっと大きな不幸なのではなかろうか」

 外交官特権を振舞った官僚に、岸さんは次のように指摘する。
「日本の官僚に『沖縄の心』がわかるのだろうか。沖縄を占領している米軍の感覚より自由気ままである。沖縄の苦難の歴史を知り、住民の気持ちを理解するのは所詮無理なことではないだろうか」

 岸さんの論壇は、沖縄の復帰準備を行う本土官僚に猛省を促し、復帰準備の精神を鋭く問うその姿勢は、本土官僚に「沖縄の心とは何か」について大きな示唆を与えた。

 オリオンビール(株)の創設者・具志堅宗精社長は、岸論文に同感の意を表され、「沖縄復帰の精神」が掲載された沖縄タイムスを日本政府の要路へ向けて多数送付。

 県内経済界は、岸さんの「沖縄復帰の精神」に影響を受け、復帰特別措置の要請を展開する。復帰ショック緩和策として特別措置を求める沖縄の声は日増しに高まる。

 岸さんの論壇を読んだ山中貞則・総理府総務長官は官僚を喝破し、「償いの心」「国の責任論」で沖縄の復帰対策に取り組むよう指示する。山中の政治力学によって1970年3月31日、「沖縄復帰の基本方針」が閣議決定される。


posted by ゆがふ沖縄 at 11:27| Comment(0) | 日本政府の沖縄差別 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする