2012年01月21日

6.外国資本導入(2)

シリーズ:検証:戦後67年の沖縄

6.外国資本導入(2)

琉球政府が196593日に設定した「外資導入審査基準」には次の項目が記載されている。

(1)
輸入への依存度を減少すること

(2)輸出による所得を増加すること
(3) 琉球の資源を最大限に活用すること
(4) 直接、間接に国際収支の大幅な改善に貢献する
     こと

(5)大規模な資本導入を歓迎する
(6)地元資本と提携するものを優先する
(7)地元との提携については、できる限り50%未満
     でそれに近いものを優先する

(8) 高度な技術を要する企業に対する外資を優先す
     る

(9) 既存企業の生産力増強等、その健全な発展に寄
      与すること

10)雇用の拡大に大きく寄与すること
11)その他、琉球経済の発展及び民政向上に大きく
     寄与すること


 琉球政府通商産業局の内部資料によれば、米側が主導していた「米琉合同審査時代」の外資導入は195812月末現在で61件、認可外資額は約460万ドルで導入件数の72%(44件)は商業、サービス業関連の企業で基地依存型第三次産業部門に集中したが資本は零細規模であった。

 主な外資は、米国資本のセブンアップ(55年)、アメリカンエキスプレス銀行(56年)、コカコーラ(56年)が進出。基幹産業の砂糖・パイン製造業では三井物産(57年)、大日本製糖(57年)、丸紅飯田(57年)などの外資が導入され、農業部門の生産体制が強化されていく。

 米軍基地建設ブームを反映して小野田セメント(53年)が進出したほか、運輸業ではノースウェスト航空(56年)の外資が認可され沖縄と外国との航空網も確立する。

 布令11号新外資法及び布令12号外国貿易が再開された59年以降、外資の進出は活発化する。ドル経済圏に組み込まれ、貿易為替の自由化、外資に対する全面的な開放政策で外資の進出が容易になったからだ。

 1959年から196912月末までに導入された外資の許認可総額は、24,800万ドル。国籍別には米国、23,550万ドル、日本943万ドル 、香港及び中国201万ドル、フィリピン15万ドルなどであった。

 この時期にアメリカ銀行、沖縄プライウッド(合板製造)、リューサンズ・インターナショナル(浚渫・埋立)、カルテックス・アジア・リミテッド(石油販売)、ABCインターナチョナル・テレビジョン(琉球放送への投資)、カイザー・セメント(琉球セメントの資本参加、ガルフ・オイル・コーポレーション(石油精製およびターミナル建設)、カルテックス・ペトロリウム(石油精製)、エッソ・スタンダード・イースタン(石油精製)など大型外資が進出し沖縄経済は活況を浴びた。

 



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2012年01月19日

6.外国資本導入(1)

6.外国資本導入(1)

 筆者は、このブログを書くに当たり、「沖縄県公文書館」に足を運び、行政の実務資料(原データー)を調べた。残念ながら行政資料はほとんど存しないことが分かった。その原因は、復帰時に引き継ぎが不十分であったことが原因だと知った。琉球政府通商産業局は、組織そのものが沖縄総合事務局に引き継がれたのだ。復帰の混乱期に職員は、文書引継ぎのゆとりはほとんどなかったのである。当時の行政資料はどこへ消えたのだろうか? 


 なぜ、外資は沖縄に進出したのか。その「外資導入申請書」の現物はない。日本政府はなぜ、沖縄の外資進出に神経をとがらしたのか。なぜ、復帰直前に沖縄に縛りをかけたのか。なぜ、沖縄の自立を妨げたのか。日本政府の罪は大きいのではないか。素朴な疑問は消えない。この謎にいずれ回答を出していきたい。


□ □ □ □

   米軍の外資導入政策(1946年から19522月までの間)は、琉球列島司令部が、基地内の事業活動として、セントラル・エクスチェンジに特別免許を与えたのが最初だ。

 為替管理制度時代の外資導入は、米国民政府布令「琉球列島における外国人の投資」が公布され琉球政府と米国民政府による合同審査(195231日〜1958911日)を行ったが196593日以降は、審査権は琉球政府に移管された。

 民政府布令は4回改正された。

(1)195231日、米国民政府布令第74号、「琉球列島における外国人の投資」

(2)1952910日、米国民政府布令第84号「琉球列島における外国人の投資」

(3)1952111日、米国民政府布令第90号「琉球列島における外国人の投資」

(4)1958912日、高等弁務官布令第11号「琉球列島における外国人の投資」


布令74号公布時の沖縄はようやく戦後の社会・経済の混乱期を脱却するとともに、1950年の朝鮮戦争の勃発をひとつの契機として、次第に基地経済への傾斜を強めていった時期だ。米国民政府は、沖縄で民間経済の再建と健全な地元産業の育成を強調し、外国資本の投資を促すようになった。


 195231日から1958911日までの外資導入審査は、民政官の諮問機関「外資導入合同審査会」で行った。その構成は、民政官が任命する民政府職員2名、行政主席が任命する琉球政府職3名、計5名で審査した。

 最終決定は、民政官が承認(行政主席は署名で形式的に追認)し、外資導入免許が公布された。沖縄で設けた利潤の送金については最低限度に限るとして制限した。 

  当時、日本は国内産業保護の立場から、外国資本の導入を規制していたが、米軍は沖縄で外資導入の自由化政策を採るようになる。このような中、衆議院は沖縄に議員団を派遣し、1967831日琉球政府に対して外資導入の説明を求めた。施政権の及ばない沖縄に対してだ。

  沖縄を放置してきた日本政府は、沖縄での外資自由化が日本経済を脅かすことを恐れたのだろう。

琉球政府の外資導入関連文書は、ほとんど残っていない。担当職員がすべて組織ごと沖縄総合事務局等日本政府の機関に引き継がれたからだ。

  
 唯一あるのは、沖縄県公文書館に琉球政府・松岡正保行政主席が「衆議院沖縄調査団」への説明資料が保存されているだけだ。

松岡政保琉球政府行政主席は米流審査時代の外資導入の基準について「衆議院沖縄調査団」の要求に応じて説明。それによると、@島内の天然資源を加工し、輸出物産を製造するものA輸入品に代わる物資を生産するもので、現在または将来において地元の技術または資本で建設し得る見込みのないものB地元との合弁事業を優先する─として外資受け入れの現状を説明している。


  沖縄がドル経済に組み込まれると、琉球列島内の資本不足を補い、経済を活発化することが大きな課題となり、1958912日、高等弁務官は布令第11号「琉球列島における外国人の投資」を公布する。

  同布令には冒頭、「政策」として米国民政府及び琉球政府の根本目的を記載する。内容は、輸入への依存度を減少し、輸出所得を増加し、琉球住民の生活水準の維持、活気ある経済発展を掲げ、琉球の資源を最大限活用することを援助するとして自由化政策を打ち出したのだ。
 
 一方、米国は沖縄の通貨をB軍票円からドルに切り替えたが、ドル経済圏の沖縄経済に大きな転換を迎えることになる。国際通貨としての価値の高いドルを沖縄で流通することによって外国人に安全な投資を促し、外国為替管理を全廃して資本、利潤の送金を自由にしたのである。

  1958912日には、高等弁務官布令12号「琉球列島における外国貿易」が公布され、米合衆国ドルによる対外商取引の開始及び「自由貿易地域」の設置など国際市場につながる経済自由化の方向付けで外資導入が促進されるようになる。対外取引は米合衆国ドルによって行うことを規定し、現金取引は輸出及び輸入の許可を要しないとして自由貿易の環境が整ったのだ。

高等弁務官布令第11号の特徴は、ドル経済に対応して外資導入にこれまでと変わった積極性を打ち出したことである。旧布令(布令90号)は基本的には歓迎するものの、多くの条件をつけて、つまるところは外資を制限する結果となり、めぼしい成果は上がっていなかったからだ。布令90号による外資の動向は、島内の業者と競合する商業は希望していたが、生産面において外国人は市場の狭隘から投資を渋っていたのである。

新布令は、琉球経済に寄与する外国資本を歓迎し@合弁、単独外資いずれでもよいA資本元本、果実の自由送金制B新規生産事業の歓迎C投資環境の改善D投資側に対する採算の配慮─などが基本線として示した。


このように、従来の外資制度に比べると、きわめて開放的な政策を打ち出したのである。外資導入の審査権限についても196593日以降、琉球政府に移管された。1952年以来、準拠してきた外資導入に関する民政府指令第20号「外資導入合同審査会の組織並びに運営手法」が廃止され、代わりに196593日「外資導入審査会設置規則」が公布されたので、従来の琉米合同審査制度に代わる琉球政府職員のみで構成する「外資導入審査会」に審査権が移った。

  しかし、必要な場合には、「民政府と協議し、民政府側の了解を求めなければならない」とし、外資導入の意思決定において、沖縄側のイニシアティブが必ずしも健全なものではなかった。審査会は、行政主席の諮問に応じ外資導入に関する総合的施策の樹立及び外資導入施策の立案、外資導入審査などを実施するようになった。

 その後、1968912日、琉球政府立法院は「外資導入に関する立法」を制定。外資立法は、沖縄経済の自立とその健全な発展及び国際収支の改善に寄与する日本及び外国資本の投下のための健全な基礎を作ることを目的として立法化した。上記外資立法第6条で外国投資家は、沖縄の法令により設立した法人の株式または持分を取得しようとするときは、規則で定めるところにより、行政主席の認可を受けることとした。外国資本を調査審議する機関として「外資審議会」も設置(第15条)し、権限は琉球政府に移管されるようになった。

外国資本を認可するときは、行政主席は外資審議会の意見を尊重して外資導入の可否を判断する規定が盛り込まれた。

posted by ゆがふ沖縄 at 00:13| 検証・戦後67年の沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

5.L/C貿易(2)

シリーズ :検証・戦後67年の沖縄

5.L/C貿易(2)


 L/C貿易とは、貿易決済を円滑化するための手段として、当事者間に輸入国の銀行と輸出国の銀行が入って、支払いを確約する制度である。荷為替信用状とも呼ばれ、信用状は輸入業者側の取引銀行が発行する。L/Cは、輸入地の銀行から輸出地の銀行を経由して、必要書類とともに輸出者に届く。輸出者は仮に輸入者が支払い不能になった場合でも輸入者の取引銀行が支払いを約束しているので輸出代金の支払いは確実になる。

民間貿易が開始された1951年の輸入額は1,406万ドルであったが、55年には6,270万ドル、6013,338万ドル、67年は36,321万ドル、復帰直前の71年は63,822万ドルに拡大した。

1952年以降は日本向けの輸出が本格化すると同年10月1日、「本土と南西諸島との貿易及び支払いに関する覚書」が締結された。


 覚書で日本政府は南西諸島からの輸入について次の特別措置を講ずることになる。


(1)  南西諸島の原産の物資はすべて自動承認制にする。

(2)  輸入公表は年間を通じて輸入承認申請の受付の継続性を確保する。品目の追加は必  要に応じ、随時行う。

(3)  標準決済方法、輸入限度を超える貨物の輸出にかかわる通商産業大臣の事前許可制については、逐次、その制限を緩和し、手続きを簡素化する。

(4)  無為替輸入及び委託加工貿易契約にかかわる通商産業大臣の承認制については、極力その承認基準を緩和する。

(5)  本土は南西諸島に対する輸出入の中継を行うことができるものとする。

 南西諸島との貿易特別措置は琉球政府の原産地証明書の添付を義務付けて、輸入関税を免除する制度である。特恵関税によって国際競争力に乏しい琉球産品は日本本土の市場浸透を果たすことが可能となり、戦後、はじめて日本と沖縄の貿易に門戸が開かれた。

南西諸島物資は、黒糖、泡盛、鰹節、くず鉄、豚、琉球絣など沖縄原産約150品目が関税免除品目に指定された。南西諸島物資をめぐって日琉間で解釈の相違も見られた。たとえば、外国船籍がとった魚を海上で沖縄船籍に積み替え、南西諸島物資(沖縄原産)として、原産地証明を添付して本土に輸出する事例や外国産の牛を沖縄原産として輸出する事例も散見されたが、申請は自動承認制であるため制度の盲点を利用した商取引などが横行した。沖縄と日本の貿易の特殊性から発生した事例であるが、回遊する魚や牛などの家畜は国籍判読が不可能で沖縄側の原産地証明があれば輸出が認められていた。


 日琉貿易覚書は、日本から分断されていた沖縄の輸出増大の契機となった。1952年の輸出は439万ドルであったが、その後順調に拡大し、551344万ドル、562,017万ドルと4.6倍に急増した。60年代後半になるとさらに拡大し、67年は7,833万ドル、復帰直前の71年は13,889万ドルと順調に伸びた。

敗戦後の対本土輸出の特徴として、スクラップ・ブームが起こったことも沖縄の特殊事情を反映した。鉄の暴風といわれた沖縄戦の残滓として米軍の薬きょう、戦車、軍艦、戦闘機の残骸のくず鉄がいたるところに散乱。スクラップの値段が急騰し、それを拾ってくず鉄業者に売って生活を維持していた。スクラップ拾いは、生活の糧として現金収入になるので魅力あるビジネスとして多くの住民はフルガニ・アチミヤー(くず鉄収集)で困窮から脱出した。


 ちなみに、1951年のスクラップの輸出は14,000ドルであったが1953年は 131万ドル、ピーク時の56年は1,170万ドルに達し、輸出全体の58%を占め、基幹産業である砂糖659万ドル(32.7%)、パイン34万ドル(1.7%)を大きく上回った。

その後、スクラップ・ブームは本土の経済不況、消費市場の低迷で取引が停止、58年は269万ドルまで減少した。基幹産業の砂糖、パインが輸出の主流となった。復帰直前の1971年の輸出総額は13,889万ドル、そのうちスクラップはわずか273万ドル(2.0%)に低迷し、砂糖5,026万ドル(36.2%)、パイン1,354万ドル(9.7%)が沖縄の輸出を支えた。





posted by ゆがふ沖縄 at 00:06| 検証・戦後67年の沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする