6.外国資本導入(1)
筆者は、このブログを書くに当たり、「沖縄県公文書館」に足を運び、行政の実務資料(原データー)を調べた。残念ながら行政資料はほとんど存しないことが分かった。その原因は、復帰時に引き継ぎが不十分であったことが原因だと知った。琉球政府通商産業局は、組織そのものが沖縄総合事務局に引き継がれたのだ。復帰の混乱期に職員は、文書引継ぎのゆとりはほとんどなかったのである。当時の行政資料はどこへ消えたのだろうか?
なぜ、外資は沖縄に進出したのか。その「外資導入申請書」の現物はない。日本政府はなぜ、沖縄の外資進出に神経をとがらしたのか。なぜ、復帰直前に沖縄に縛りをかけたのか。なぜ、沖縄の自立を妨げたのか。日本政府の罪は大きいのではないか。素朴な疑問は消えない。この謎にいずれ回答を出していきたい。
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米軍の外資導入政策(1946年から1952年2月までの間)は、琉球列島司令部が、基地内の事業活動として、セントラル・エクスチェンジに特別免許を与えたのが最初だ。
為替管理制度時代の外資導入は、米国民政府布令「琉球列島における外国人の投資」が公布され琉球政府と米国民政府による合同審査(1952年3月1日〜1958年9月11日)を行ったが1965年9月3日以降は、審査権は琉球政府に移管された。
民政府布令は4回改正された。
(1)1952年3月1日、米国民政府布令第74号、「琉球列島における外国人の投資」
(2)1952年9月10日、米国民政府布令第84号「琉球列島における外国人の投資」
(3)1952年11月1日、米国民政府布令第90号「琉球列島における外国人の投資」
(4)1958年9月12日、高等弁務官布令第11号「琉球列島における外国人の投資」
布令74号公布時の沖縄はようやく戦後の社会・経済の混乱期を脱却するとともに、1950年の朝鮮戦争の勃発をひとつの契機として、次第に基地経済への傾斜を強めていった時期だ。米国民政府は、沖縄で民間経済の再建と健全な地元産業の育成を強調し、外国資本の投資を促すようになった。
1952年3月1日から1958年9月11日までの外資導入審査は、民政官の諮問機関「外資導入合同審査会」で行った。その構成は、民政官が任命する民政府職員2名、行政主席が任命する琉球政府職3名、計5名で審査した。
最終決定は、民政官が承認(行政主席は署名で形式的に追認)し、外資導入免許が公布された。沖縄で設けた利潤の送金については最低限度に限るとして制限した。
当時、日本は国内産業保護の立場から、外国資本の導入を規制していたが、米軍は沖縄で外資導入の自由化政策を採るようになる。このような中、衆議院は沖縄に議員団を派遣し、1967年8月31日琉球政府に対して外資導入の説明を求めた。施政権の及ばない沖縄に対してだ。
沖縄を放置してきた日本政府は、沖縄での外資自由化が日本経済を脅かすことを恐れたのだろう。
琉球政府の外資導入関連文書は、ほとんど残っていない。担当職員がすべて組織ごと沖縄総合事務局等日本政府の機関に引き継がれたからだ。
唯一あるのは、沖縄県公文書館に琉球政府・松岡正保行政主席が「衆議院沖縄調査団」への説明資料が保存されているだけだ。
松岡政保琉球政府行政主席は米流審査時代の外資導入の基準について「衆議院沖縄調査団」の要求に応じて説明。それによると、@島内の天然資源を加工し、輸出物産を製造するものA輸入品に代わる物資を生産するもので、現在または将来において地元の技術または資本で建設し得る見込みのないものB地元との合弁事業を優先する─として外資受け入れの現状を説明している。
沖縄がドル経済に組み込まれると、琉球列島内の資本不足を補い、経済を活発化することが大きな課題となり、1958年9月12日、高等弁務官は布令第11号「琉球列島における外国人の投資」を公布する。
同布令には冒頭、「政策」として米国民政府及び琉球政府の根本目的を記載する。内容は、輸入への依存度を減少し、輸出所得を増加し、琉球住民の生活水準の維持、活気ある経済発展を掲げ、琉球の資源を最大限活用することを援助するとして自由化政策を打ち出したのだ。
一方、米国は沖縄の通貨をB軍票円からドルに切り替えたが、ドル経済圏の沖縄経済に大きな転換を迎えることになる。国際通貨としての価値の高いドルを沖縄で流通することによって外国人に安全な投資を促し、外国為替管理を全廃して資本、利潤の送金を自由にしたのである。
1958年9月12日には、高等弁務官布令12号「琉球列島における外国貿易」が公布され、米合衆国ドルによる対外商取引の開始及び「自由貿易地域」の設置など国際市場につながる経済自由化の方向付けで外資導入が促進されるようになる。対外取引は米合衆国ドルによって行うことを規定し、現金取引は輸出及び輸入の許可を要しないとして自由貿易の環境が整ったのだ。
高等弁務官布令第11号の特徴は、ドル経済に対応して外資導入にこれまでと変わった積極性を打ち出したことである。旧布令(布令90号)は基本的には歓迎するものの、多くの条件をつけて、つまるところは外資を制限する結果となり、めぼしい成果は上がっていなかったからだ。布令90号による外資の動向は、島内の業者と競合する商業は希望していたが、生産面において外国人は市場の狭隘から投資を渋っていたのである。
新布令は、琉球経済に寄与する外国資本を歓迎し@合弁、単独外資いずれでもよいA資本元本、果実の自由送金制B新規生産事業の歓迎C投資環境の改善D投資側に対する採算の配慮─などが基本線として示した。
このように、従来の外資制度に比べると、きわめて開放的な政策を打ち出したのである。外資導入の審査権限についても1965年9月3日以降、琉球政府に移管された。1952年以来、準拠してきた外資導入に関する民政府指令第20号「外資導入合同審査会の組織並びに運営手法」が廃止され、代わりに1965年9月3日「外資導入審査会設置規則」が公布されたので、従来の琉米合同審査制度に代わる琉球政府職員のみで構成する「外資導入審査会」に審査権が移った。
しかし、必要な場合には、「民政府と協議し、民政府側の了解を求めなければならない」とし、外資導入の意思決定において、沖縄側のイニシアティブが必ずしも健全なものではなかった。審査会は、行政主席の諮問に応じ外資導入に関する総合的施策の樹立及び外資導入施策の立案、外資導入審査などを実施するようになった。
その後、1968年9月12日、琉球政府立法院は「外資導入に関する立法」を制定。外資立法は、沖縄経済の自立とその健全な発展及び国際収支の改善に寄与する日本及び外国資本の投下のための健全な基礎を作ることを目的として立法化した。上記外資立法第6条で外国投資家は、沖縄の法令により設立した法人の株式または持分を取得しようとするときは、規則で定めるところにより、行政主席の認可を受けることとした。外国資本を調査審議する機関として「外資審議会」も設置(第15条)し、権限は琉球政府に移管されるようになった。
外国資本を認可するときは、行政主席は外資審議会の意見を尊重して外資導入の可否を判断する規定が盛り込まれた。
posted by ゆがふ沖縄 at 00:13|
検証・戦後67年の沖縄
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