2012年02月12日

宮田裕の「アジアリポート」(2)

宮田裕の「アジアリポート」(2)


  バンコクは政治、経済、宗教、社会その他あらゆる分野において、タイの頭脳であり、心臓である。しかし、バンコクの社会は地域特有の富と貧困が交錯し、豊かさや喧噪とは裏腹に時間が止まってしまった暗い社会もある。貧困の深みにはまり路上で生活している子供達だ。タイ社会の底辺に影をしのばしているホームレスの子供達を視察し、心を痛めた沖縄の女性の話を聞いた。

■ 総理、沖縄でお待ちしています
  木寺昌人公使から聴いた話であるが、20001月、小渕総理がバンコクを訪れた際にODAモニター会議が開催されたという。沖縄から、大浜さんという主婦が参加し意見発表したが、総理一行大変感動する場面があったようだ。大浜さんはタイのスラム街でホームレスの貧しい子供たちを視察し、この地に対する病みがたき想いについて総理の前で発表したという。

「もし、この子供たちが自分の子供なら、自分は親としてどのように対応すべきだろうか。日本は貧しいアジアの子供たちを救うために愛の手で支援をして欲しいと」いう言葉が印象的だったと木寺公使は語る。総理は沖縄サミットで、アジアの声を反映するためにバンコクを訪れたという。

 スラム街で生きる子供たちの貧しい現実に心を痛めた大浜さんは、最後に小渕総理に語りかけたという。

「総理、7月のサミットには、沖縄でお待ちしています」。大浜さんの言葉に総理は大きくうなずいて聴いていたという。アジアを見る視点は、限られた人々による交流ではなく、大衆レベルのものとして、一般の人々の手が届く形で、アジアに対する正確な情報を身につける必要があると思った。


■ 通貨危機とタイ経済 
 タイ国大使館の資料によると、タイの国土面積は51.4平方キロ(日本の1.4倍)で人口は6081万人で560万人は首都バンコクに集中している。タイ国民の大多数がタイ族。タイ族以外で最も多い架橋のタイ化の度合いも進んでおり、深刻な民族問題は生じていない。なお、マレー系民族は南部の四県に住み、ほとんどがイスラム教である。宗教は、タイ国民のほとんどが仏教徒であり、仏教は国教の観がある。

 タイを訪れた時は、東京から200名余の経済ミッションがバンコク入りし、ジェトロ・バンコクセンターは受け入れ態勢に多忙を極めていたが、中川貿易振興部長は時間を割いていただいた。1997年から東アジアは、通貨危機に見舞われ、立ち直りは難しいといわれていたが、タイが通貨危機に至る経過と経済再建策について話を聴くことができた。

  タイ金融当局は、9772日、バーツの管理フロート制移行(実質切り下げ)を決定したが、その後もタイ経済のファンダメンタルズの悪化を狙ったバーツ売りの動きは止まらず、タイ政府は同年85日にIMFへの融資要請を決定、併せて包括的な経済再建策を発表した。それにより、厳しいデフレ政策が実施されることとなり、これまでの高成長を続けてきたタイ経済も、低成長を余儀なくされることとなった。

  96年のタイ経済は、輸出の伸び悩み(前年比0.3%増)が顕著となり、これが国内生産及び設備投資の減少につながり、実質GDP成長率は95年の8.8%から5.5%へと低下した。輸出の伸び悩みの主な要因は、労働集約型製品分野でタイ製品のコスト上昇と後発国の追い上げによる競争力の悪化により、同製品輸出が大きく落ち込んだことによる。


  しかし、輸出の急激な伸び悩みが96年に発生したのは、タイの通貨制度にもその原因があったと考えられる。バーツの為替レートは8412月に通貨バスケット方式へ変更されたものの実質的にはドルとリンクしており、96年に入ってからのドル高がバーツ高につながり、それが後発国の台頭と相まって急激な競争力の低下をもたらしたとみられる。 こうした輸出の伸びの低下は、前多雨に占める原材料や部品の構成比が高い輸入の伸びも低下させたが、依然として経常収支赤字は対名目GDP比で7.9%と高水準であった。

 さらに、景気低迷が財政的にも大幅な税減収をもたらし、97年度予算の10年ぶりの赤字が確実となる等、経済パフォーマンスの悪化が広がりつつあった。


 そして、金融不安の表面化がバーツ売りの引き金となった。タイでは、好調な経済のもと80年代後半に積極的な不動産投資が行われたが、景気が調整局面を迎えるにつれて、オフィスビルやコンドミニアムなどの供給過剰が表面化した。タイ政府の高金利政策は不動産業界の金利負担を増加させ、この負担に耐えられない不動産業社を続出させた。さらに、株価低迷も加わり、金融機関の不動産向け融資や株式担保融資が不良債券化し、金融機関の経営を圧迫することとなった。

 また、97年に入り、GDPに占める経常収支赤字の上昇やタイ国内の金融不安を懸念する見方が広がり、バーツに対する投機筋の売り浴びせから外貨準備高が減少した。同年5月には、アムヌアイ副首相解任の噂が引き金となり株価指数が600ポイント割り込むなど経済低迷の長期化や政治に対する不信感が強まり、514日に海外投資筋からのバーツ売りが加速し、シンガポール市場では一時1ドル26.20バーツまで低下した。


 これに対してタイ中央銀行はシンガポール、マレーシアの各中央銀行と香港銀行管理局に協調介入を依頼し、国内の商業銀行及び外銀支店に対して外国からの投機的なバーツ取引に応じないように要請するなど沈静化に努めた。


 その後もバーツ売り圧力は衰えず、外貨準備高の5か月連続減少(971月末の392億ドルから6月末の324億ドル)もあって、政府はこれ以上通貨バスケット制を維持するのは困難との判断から、同年72日、為替相場の管理フロート制への移行に踏み切った。今回のフロート制移行は強いバーツ売り圧力に屈した形であり、事実上のバーツの切り下げであった。これによりバーツ相場は経済のファンダメンタルズ
に対応して市場の実勢により、決定されることとなったが、バーツ売り圧力は衰えるけはいがなく、6月末には、1ドル25.79バーツだった対ドル為替レートは715日に1ドル30バーツ台に突入した。


 さらに、10月末の世界同時株安の影響などから1ドル40バーツ台を突破、その後も国内の流動性不足や根強いドル需要、また日本の金融不安や韓国のIME支援要請、インドネシアの通貨下落などから981月中旬には1ドル57バーツ近くまで下落した。

 しかしながら、同年130日の二重為替制度廃止以降バーツは値を戻し、現在は1ドル40バーツを切る水準で推移している。



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2012年02月11日

宮田裕の「アジアリポート」(1)

宮田裕の「アジアリポート」(1)


 タイ、マレーシア、シンガポールを訪れるのは3度目であった。タイは日本企業の自由で活発な活動がタイの経済発展をリードしていた。マレーシア、シンガポールでは、IT(情報技術)革命で時代を先取りするマルチメディア・スーパー・コリドーおよびシンガポール・ワンの国家戦略計画が、政治的勇気と経済的手腕で進められていた。

* * *

 2000年2月、私は公用パスポートを持参し、タイの首都「バンコク」へ向かった。寒風の吹き荒れる成田を飛び立った飛行機はシンガポールまで南下し、トランジット後再びタイへ北上した。ジェトロの経済ミッションと重なりバンコク行きの直行便がとれず、9時間の長旅だった。ラオスとタイの国境をなしているメコン川を越えてタイ領に入り、バンコクのドン・ムアン国際空港に着いたのは、夜の9時を過ぎていた。温度は31度、沖縄の真夏の感じだ。冬の日本からバンコクに降り立つと、足もとからムッと熱気が入ってきて、熱帯の地に着いたことを実感する。タイの気候は熱帯モンスーン気候であり、雨期と乾季に大別できるが、年平均気温29.6度、平均湿度75%と高温多湿である。市内までの距離は27キロで所用時間は40分であるが、1時間以上を経過することも頻繁にあるという。高速道路から見る街の風景は ビルラッシュで経済危機克服の軌道に入ったと思えた。


  翌日、在タイ日本国大使館を訪れ、木寺昌人公使からタイ経済の現状について説明を受けた。木寺公使は梶山官房長官の秘書官を務められ、北部振興策で数回沖縄を訪れたとのことで沖縄の事情に詳しかった。タイでウチナーンチューに会った雰囲気だった。

タイと日本・沖縄の関係
 日本民族学の父と呼ばれた柳田国男は、伊良湖岬に流れついた椰子の実を見て、遙かなる南国と日本との深い関係に気づいたと述懐する。日本文化は疑いもなく「黒潮文化」をその重要な構成要素としており、その意味では、東南アジアは日本文化の原点であると本で読んだ記憶がある。

 タイと日本との関係は、戦時中、日本軍は特別円として20億バーツの借款をしており、第二次大戦後荒廃した日本を飢餓から救ってくれたのがタイ米であった。


 沖縄との関係では、南方貿易が盛んな15世紀の初め頃(1404年)、シャム船が初めて交易の目的で琉球に来ており、ラオロンという酒もその頃から入ってきたものと推察されている。泡盛のルーツは、シャム(タイ)であり、泡盛の原料はタイの砕米でタイと沖縄は古くから深い関わりがある。

 日本国大使館で木寺公使からタイ経済の現状を聴いた。それによると、タイの国内総生産(GDP)は1997年で約1530億ドルと日本の27分の1の規模で、これを国民1人あたりで見ると2525ドルと日本の約13分の1の水準という。アセアン諸国の中では、GDPはインドネシアに次ぐ規模であり、1人あたりGDPはシンガポール、ブルネイ、マレーシアに続いている。経済指標でみると96年までの高成長の後、経済危機に面して97、98年とマイナス成長が続いている。

 産業構造は伝統的に農業中心であったが、80年代以降急速に工業化が進んでいる。80年と比較して見ると、GDPに占める農業のウェイトは21.%%から11%(96年)へ低下しているのに対し、製造業のウェイトは21.%から28.%へと拡大している。特に85年以降の円高によって輸出が大幅に伸び、工業化に一層のはずみがついている。就業構造の面においては、就業人口の約半数が依然農業に従事しており、農業の占める役割は重要である。

  タイ経済は農業と工業に支えられている。農業は農産物に付加価値をつけ、パインは缶詰製造業、キビは砂糖製造業として輸出産業に貢献しているほか、熱帯の特性を活かした果樹、ラン等の生産が盛んで沖縄農業との共通性がみられる。

 沖縄21世紀プランでは、「沖縄農業は、我が国唯一の亜熱帯地域という本土との気候風土の違いを活かして熱帯果樹や花卉、冬春期野菜、肉用牛等生産が増加している一方、サトウキビやパインは生産者の高齢化による影響などで生産量が減少傾向にある」と分析している。 木寺公使は、タイの農業と沖縄農業との共通性にふれていたが、タイの農業が成功しているのは、国民ニーズに支えられた農業の市場経済化の重要性が局地経済圏としてタイの雇用安定をはかっているという説明であったが、大変興味深く説得力に富んでいた。

  沖縄はタイから米を輸入して泡盛をつくっている。沖縄の泡盛製造業の技術、製造拠点をタイに移して泡盛を製造すると価格競争力がつき、外国市場へ国際展開できるのではないか、という提言がなされたが、泡盛は沖縄の地場産業として期待されており、グローバルな視点から経営戦略を練る発想に、21世紀の沖縄経済発展のヒントがあると思った。



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