2012年06月06日

櫻井溥「沖縄を語る」(27)

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(27)

(ドルショック:そのD)


 また、琉球政府も非常事態のシフトを組んだ。企画局長は7、8人の職員を選び、特命でその業務にあたらせた。その時、「これから行う仕事については、親兄弟にも一切口外してはならない。今日から帰宅することはできない。主席公邸で寝泊まりすることになるが、そのことも含め、家族にも一切知らせるな」という訓示からはじまったという。その時の職員の一人は、その奇妙な体験をのちに小誌にまとめて出版している。

 このマル秘作戦で一番おそれたのは、この措置は沖縄住民だけを対象にしているのに対し、沖縄在住の米軍やその家族から、大量のドルが確認場所に流れはしないか、また米国の通貨に郵便切手を貼る、そんなことになると米国本国からの大きな抵抗があるのではないか、などであった。


 さて、沖縄では先ず立法院が招集された。議題の何たるかを示すこともなく、その日の朝、主席名の広報でこのことが告示される。議場に集まると、金融機関閉鎖令のような立法を直ちに採決せよという。

 アレヨ、アレヨという間に金融機関の全ての店舗がシャッターを下ろす。一方、出勤してきた職員の相当部分は、その日の朝、即県内各地へ出張を命じられる。通貨確認のため、学校、公民館へ何百人もの職員が大移動する。持たされた袋の中には、確認に必要な用紙、糊、切手、朱肉、スタンプ等々。

 しかし、この通貨確認業務は、その日の朝、早々とつまずく。米軍(多分本国と連絡をとったのであろう)から、いやしくも世界各地で流通している米国ドル紙幣に、沖縄の切手を貼る(しかもあらかじめ高性能の糊を用意していた)のは論外、と強い抗議を受け、この案はあっさり撤回された。

 その代り、丸い鉛筆の後ろを使って朱肉で印を付けることにした。これだって難しいことを言えば外国通貨の既存に当たることになるのだが、強引にこれを押し切る。

 さて、問題は貨幣、つまりコインの確認である。コインに切手を貼るわけにはいかず、いわんや朱肉での印なんてすぐ取れてしまう。同じコインを確認場所を変えて何回も何回も確認して「確認書」を作成したら、補償金はいくらあってもたまらない。

 事前の打ち合わせでこのことへの懸念を示した沖縄・北方対策庁調整部長に対し、副主席は「沖縄はそんな悪いことをする人はいない」と言い放ったという。

 ずっと後で、調整部長は「いやあ・・・、あの時は恥ずかしい思いをしたよ」と述懐していた。「天の羽衣」の故事を思い出させる話ではある。

 しかし、世の中はそんなに甘くはなく、やはり中には気の利いたはしっこい者はいるもので、袋に詰めたコインを数回にわたって確認させた強の者は、若干いたようである。


 この朱肉印の米ドルは、復帰まで沖縄で流通していたが、一部は米本国でも見られたという。1ドル、5ドルの朱肉印のドル紙幣を見た米国人は「???」といぶかったかどうか。

 とにかく、円高ドル安の差損問題は、これで一件落着。ここでも山中大臣の指導力は遺憾なく発揮された。そしてその対応に、日銀とも莫大なエネルギーを費やした。「レバ・タラ」ではないが、あのニクソンショックさえなければ、もっと仕事はスムーズに済んだ、との思いは今もある。それほど、苦労の多いことであった。


 このニクソンショックの陰に隠れているが、当時、日米間では重大な取引が行われた。日米繊維摩擦のことである。いわゆる日米貿易摩擦の第1号である。日本の繊維の対米輸出が拡大し、米国の国内業者が音をあげた。輸出を規制してくれというのである。この繊維からやがてカラーテレビ、自動車、半導体そしてフイルムと日米間の貿易摩擦は際限なく続いているが、その嚆矢となったのが「繊維」だったのである。これが解決しないと沖縄返還にも重大な影響が出ることが憂慮された。宮沢通産大臣はこの解決に大いに手をこまねいたが、その後、田中(角栄)通産大臣はあっさりとこれを解決した。米国の言い分は大いに尊重し、あとは国内業者対応で処理したのである。

 新聞は「糸(繊維)売って縄(沖縄)買った」と揶揄したものである。

















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2012年06月05日

沖縄と官僚・・・あれから40年

沖縄と官僚・・・あれから40年

 ─復帰40年に思う─

復帰40年を迎えた5月15日、私は那覇市与儀の「日本政府那覇南方連絡事務所の跡」の石碑の前に立っていた。ここは米軍統治下時代の日本政府が対沖縄行政をつかさどったところだ。現在の那覇警察署の場所である。沖縄で唯一「日の丸」を掲げ、敷地内は治外法権だったのだ。パーティで使用する高級スカッチウイスキー、ビールなどは免税品を使用する。年末には職員への高級スカッチウイスキーの配分もある。公用車に番号はなく「日本政府」のナンバープレートを掲げ、いわゆる領事館みたいな存在であった。


 夜は上司に誘われ、会員制のハーバービュークラブで免税のスカッチとステーキに浸ることが多かった。夜の迎賓館と呼ばれていた。この場所は、キャラウェイ高等弁務官が「沖縄の自治は神話」とスピーチし県民の「ひんしゅく」をかった場所でもある。

 南方連絡事務所は日本政府沖縄事務所から1970年5月、沖縄・北方対策庁沖縄事務局を経て1972年5月の沖縄返還時に沖縄開発庁沖縄総合事務局に組織再編され、2001年1月行政改革により内閣府沖縄総合事務局と変遷する。

 1970年5月から1972年5月14日まで私は沖縄・北方対策庁沖縄事務局で沖縄復帰に備え、外国資本導入の取り扱い、復帰対策要綱の事務を担当していた。琉球政府などの情報収集、つまり諜報活動をしていた。その内容を東京へ報告するのが主な仕事だった。
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復帰対策を巡って、ヤマト官僚から「沖縄を甘やかすな」という発言が多発した。驚愕することが多かった。日本政府沖縄事務所長・岸昌さんは「日本の官僚に沖縄の心が分かるだろうか」と揶揄し、沖縄タイムス論壇で「復帰準備の精神」を投稿し警鐘を発した。私は日本政府三つの大罪について本ブログで取り上げた。


岸さんの次の言葉は私の脳裏から離れることはない。

「沖縄が米軍に支配されていることは、不幸なことであるが、沖縄を知らない本土の官僚が沖縄の復帰対策に携わることはなお不幸なことである」


 この言葉は、復帰40年を迎えたいま、本土から沖縄総合事務局に赴任している一部の官僚にも当てはまる。沖縄を知らない世代の台頭、振興行政の風化が見られるからだ。

 日本政府はなぜ、沖縄に出先機関を設置したのか。GHQ(連合国最高司令部)は1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約を締結する直前の4月14日、日本政府に覚書を出した。日本政府は覚書を受け、米軍占領下の沖縄に国の出先機関を設置した。

 沖縄を占領した米軍は、沖縄住民の取り扱い、本土との渡航、遺骨収集などの戦後処理問題について日本政府の出先機関設置を求めたのだ。詳しいことは本ブログで取り上げたので省略する。

 1972年5月14、沖縄・北方対策庁沖縄事務局は解体された。米軍占領統治の国の沖縄政策は復帰により、使命を終えて幕を閉じたのである。翌15日、悲願の祖国復帰を迎えた。沖縄総合事務局が発足。旧日本政府職員は那覇市民会館で開催された「沖縄復帰記念式典」に動員された。

 すごい大雨だった。私たちは復帰式典会場の整理、VIPの案内をしていた。隣の与儀公園では「5・15抗議県民総決起大会」が開かれていた。「基地機能存続」「1ドル305円交換」など「沖縄処分」を訴える声がマイクから響く。大粒の雨に天が泣いたのだろうか。

 復帰記念式典は1500人が出席した。東京と沖縄は二元中継された。あれから40年・・・沖縄の苦悩は続く。

写真:日本政府沖縄事務所(那覇市与儀)


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2012年06月04日

復帰40年を迎えた沖縄から・・・。

復帰40年を迎えた沖縄から・・・。

 1972年5月15日、悲願の祖国復帰。県内では「復帰の日・特設授業」が行われた。豊見城村上田小学校では復帰を考える生徒たちの発言が黒板に記録されている。


 石川文洋さんが撮影した写真・解説について2012年5月15日、16日付の沖縄タイムスが文化欄で「石川文洋が撮った5・15」の特集記事で取り上げた。

 特設授業の写真には生徒たちが黒板にそれぞれの感想を書いている。

「復帰しても米軍は出ていかない」「基地はそのまま残る」「自衛隊がくる」


 子供たちの素直な気持ちが伝わってくる。
「沖縄の人はアメリカ兵に殺されても、たいがいは無罪になるのでかわいそう」とも書かれている。

 石川さんは指摘する。前年の71年10月12日、同級生の当間学君、28日には普天間で2人の沖縄婦人が米兵の車に轢き殺されていた・・・。

16日付の連載記事も心が痛い。石川さんは記述する。

◎「復帰の日、宜野湾市の西原加那さんを訪ねた。加那さんの娘(享年23歳)。1971年4月23日、米兵に殺された。普天間海兵航空隊所属の伍長が強姦殺人容疑で米軍特捜部によって逮捕された。宜野湾市警察が採取した血液、体液、体毛は伍長のものと一致した。判事、検事、弁護士、陪審員とすべてアメリカ人将校による軍法会議で伍長は無罪を宣告された。


 加那さんは「犯人が憎い、ぶん殴ることもできないうちにアメリカへ帰ってしまった。復帰をしても娘が戻るわけではない」と寂しそうであった。

◎コザ市の喜名みねさんの夫、武夫さん(享年42歳)はタクシー運転手だった。71年10月、アメリカ兵に殺された。犯人は捕まえられないまま迷宮入りになっていた。夫が健在であれば夫婦で「復帰の日」をいろいろと話し合っていただろう。人気のない部屋で、その状況を語るみねさんの夫を奪われた無念の気持ちが伝わってきた。

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■沖縄県民は虫けらか

 復帰40年を迎えた日にこの記事を読みながら、屈辱・植民地沖縄の歴史がよみがえった。このブログで、日本政府が沖縄返還交渉で対米請求権を放棄したことに触れたが、米軍統治下の沖縄で白人ガードによる北谷の事件を思い出した。1947年8月3日、北谷村で米軍ガード5人が誤認による殺人事件があった。米兵の氏名も判明したが、弔慰金も出していない。息子を失った73歳の老婆は生活扶助を受けて生活していた。


 

 伊江島の弾薬処理船爆発事件(1948年8月6日)では沖縄県民11人が死亡した。米軍は葬式料として1人当たり7千円(B円)を支給しただけであった。沖縄県民は虫けら同然だったのである。これが「民主主義のショーウインド」を標榜するアメリカの沖縄統治の実態だったのだ。
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 復帰後、米兵による事件・事故数は5600件を超えている。事件・事故の多発。沖縄県民は生存権が今でも脅かされている。米軍基地によって沖縄の人権が侵害されていることは復帰後変わっていない。日米安保体制は「国防の強迫」を沖縄に押し付け、沖縄の犠牲の上で成りやっている。沖縄はハードパワーの犠牲者であり、その原因は日本外交の乏しい想像力にある。復帰40年構造的差別が続く沖縄から「従属・日本外交」がよく見える。

構造的差別には必ず生れ出るものがある
悲しみの極みに「構造的差別」がある

それでも「構造的差別」は沖縄に刻まれていく
どこかに必ず沖縄の心を知る人たちがいる



posted by ゆがふ沖縄 at 00:07| 沖縄復帰40年特集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする