2012年06月03日

櫻井溥「沖縄を語る」(26)

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(26)


(ドルショック:そのC)

 実は、この間大臣と副主席は極秘に最後のダメ押しをやっていたのである。そして、ついにその対策が日琉同時に発表になった。そしてアッと驚いた。朝日新聞のスクープが、ほとんど間違いなかった。

その概要を記す。


1 沖縄住民が有している純資産の実態を個人別に確認する。現金は紙幣と貨幣について全県下でこれを確認し、確認を受けた通貨については、復帰後において1ドル360円になるよう、見舞金(実質補償金)を支給する。


2 紙幣の確認は重複確認を避けるため、紙幣の片隅に未使用の琉球政府の切手(西表島を描いたもの)を貼る。

3 預金と借入金を相殺した純資産については、この日から一切の金融機関の業務を停止し、琉球政府職員が立ち入りのうえ、預金台帳と借入帳簿の全てをコンピューターにインプットし、これを個人的に確認のうえ復帰後に通貨と同様に見舞金を支給する。

4 本土への留学生については、奨学金を割り増して支給できるように琉球育英会にその原資を援助する。

5 生活保護世帯で本土での長期療養している者については、保護費を嵩上げする。


6 そして、本土からの生活必需品を購入している商人については、小売価格を値上げしないことを前提に円・ドル差損を補償する。

 と、まあざっとこういるところである。すべてが、あとで知ったことではあるが、この措置の実施には莫大な資金を要する。特に通貨と純資産の補償には数百億円を要すると見込まれる。これについては、山中大臣は訪米中の水田大蔵大臣と激しい電話のやり取りの中で、山中大臣は強引に押し切った、と言われている。


 水田大蔵大臣にしても、突然の話だったに違いない。

「そんなことはとても承服し兼ねる」

「いやこれしか方法はない。沖縄のことは総理からまかされている」

{勝手にしろ}

「そうします」


という会話だったらしい。山中大臣は糖尿もちである。この電話のやりとりのあと失神状態に陥入った、という噂もあった。





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2012年06月01日

櫻井溥「沖縄を語る」(25)

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(25)


(ドルショック:そのB)

 当時は沖縄の返還、祖国復帰は国内の最大の政治課題であり、佐藤内閣の総仕上げでもあった。国会は「沖縄国会」と言われ、社会党などが「沖縄返還協定」の批准反対にまわり、テンションが高まっていた。

 横道節雄の息子の横道孝弘衆議院議員(元北海道知事)は、外務省の極秘電報を片手に政府の秘密外交を追求する。しかしこの電報は、外務省の女性秘書官が、毎日新聞の記者にそそのかされて持ち出したものと判明、国家公務員法違反や公文書窃取の刑事事件に発展。そこには男女の「情を通じて」などのオドロオドロした断面まで暴かれるおまけまでついた。


 そして1971年12月30日。衆議院自民党は、これ以上待てないとばかり、沖縄返還関連4法案を単独可決。そして翌72年1月7日の佐藤・ニクソン共同声明(スミソニアン会議)で、ようやく同年5月15日をもって沖縄は祖国に復帰すべし、と相成ったのであるが、話を戻すと、このような緊迫した中で、円・ドル差損対策が進められたのである。

 万が一、マスコミなどの外に話が漏れると事は重大である。山中大臣は、沖縄で流通している米ドルに対し、何らかの手を打とうとしていたのである。そのことは外務省はもちろん大蔵省に対してさえも、ごくごく山貞の必要とした人物以外には伝えられていなかった。断るまでもなく、我々事務方は、一切合切すべてが明るみに出て初めて知ったのである。

 71年10月。詳しい日付は忘れたが、朝日新聞に一寸気になる記事が出た。その真疑をめぐって他社からいろいろ照会があったが、大臣室は「それは事実無根」と一蹴。

 ただ何か不気味な雰囲気は、何となく感じ取ることがたびたびあった。副主席が時折上京し大臣室に入る。干ばつ対策だ、と言って我々事務方も大臣室に入る、が一向にその話はでない。記者にも「干ばつ対策としての援助要請」と説明してある。が、何と、これは完全にカムフラージュだったのである。

 大臣室に一同が集まり、「沖縄はまだあつくてねえ」など他愛のない話をしているうちに、大臣は「君たち、席をはずしてくれ」という。狐に包まれたようにお互いが顔を見回して「君たち」とはどの範囲を指すのか訝かったが、やがて大臣と副主席以外は全員大臣室の別室で待機せよ、と言われて部屋から追い出された。その頃には、控室に張っていた記者はもういない。

 私は大いに怒った。こんな忙しい時に、わけのわからぬまま大臣室に呼び出しておいて、仕事場には帰るな、別室で待て、とは何だ。大臣室の扉をうらめしそうに眺めてブツブツ言ったものの、長官も部長も皆子供のようにおとなしく唯黙りこくっている。



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2012年05月30日

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(24)


(ドルショック:そのA)

 県民の悲鳴に押し出される形で主席が上京し、「何とかして欲しい」と訴えるが、そんなに明暗が浮かぶわけではない。状況は刻一刻悪くなる一方である。ドル安を沖縄のために止めるわけにはいかない。

 しかし、ものごとに、表があれば裏があるように、ドル安ではくそ笑んだ一部の人達がいた。それは総理府の沖縄現地職員である。彼らの給料は、一般職の俸給のほかに外地手当(欧米諸国のそれの8割)を含めすべて円建てで支払われていた。だから例えば7万2千円の給料は200ドルだったのが、1ドル300円では240ドルに値上がりとなる。「毎日が日曜日」ならぬ「毎日が昇給する」うらやましい日々を彼らはおくっていた。

 それにもう一つ。琉球政府に対する財政援助は円建てであったため、政府の受け入れ口座では結構な額でドルが積み込まれていた。

 さてこの円、ドル差額という難問に如何なる解決策ありや。まさに知恵と決断と実行が求められていた。

 ここにまさに政治が生きてこなければならない。政治とは、つまり政治する人、政治家である。山中貞則大臣の出番である。

 夏の暑い盛り、クーラーも止まる日曜日も、我々の業務は粛々と進められた。帰宅できない日が何日も何日も続く。

「あーあ。一晩寝て目が覚めたら沖縄が復帰していた。何てことにならないかな。」たまたま課長のボヤキが聞こえる。課長のボヤキは同時に職員のボヤキでもある。この課長はその秋、胃潰瘍で倒れ、かといって入院もできず痛みをこらえて出勤が続く。課長席の隣には体操用のマットを敷き、日中でもそこに横になってもらう。他省庁の人が協議にこられたときは、起き上がって席に着くが、済めばまたマットに横になる。見るも無残。

眠くなった職員は、机の下に崩れ落ちるようにして眠ったまま、ゆすっても蹴っても目を覚まさない。何日も眠っていないのであろう。しかし、作業は待ったなし、法案のガリ印刷などが待っている。やむを得ず、文字通り冷水を顔面にかける。ずいぶんと荒っぽいことをしたもんだ。この冷水をかけられた男、今は文部省の主任体育官となっている。


山中貞則1.jpg そんな日常のなかに、山中大臣は極く極く限られた手勢で、ひそかに円ドル差損対策の秘策を練っていたのである。

時々3階の大臣室に呼ばれていくことはあったが、アッと驚くような秘策が練られているなど我々は露ほども知らない。対策の全体像を終始把握していたのは、山中大臣と調整部長(大蔵出身)それに琉球政府の副主席(宮里松正)と企画局長の4人だ。あとは対策庁長官も総務部長も課長もほとんど知らされていなかったようだ。主席には、ずっとあとになっていざ実行という段階になって耳うちされたらしい。通常の事務の進め方からは到底考えられないシフトである。

写真:山中貞則総理府総務長官





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