2012年05月29日

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(23)

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(23)


毒ガス・干ばつ、ドルショックB

(復帰前の干ばつ問題)


 この災害の特徴は、いつから干ばつが始まったのか、その時は気がつかないという点にある。台風や地震は、それが起きたときがまさに災害発生のときであるが、干ばつはじわりじわりと、降雨なしの日が続き、不気味なのは、これがだんだん利いてきて、しかもいつ降雨の日がくるか分からないという実に悩ましい災害である。

 昭和46年の春から秋にかけて、約二百数日間に及ぶ干ばつは、まさに記録的なもので離島では牛が死ぬ事故まで招く深刻な事態となった。甘蔗も野菜も畑での立ち枯れが目立った。市民の日常生活もさることながら、農作物の被害は甚大だ。もともと沖縄は離島県で慢性的な水不足地帯である。

 沖縄出張者はできる限り飲用水を持参すべし、と効果のほどはたかが知れているにもかかわらず、そのようなことまで話題になった。

 のちにこの干ばつ対策と称して、しばしば琉球政府と打ち合わせをすることになるが、なんと敵は本能寺、干ばつは干ばつなるも干ばつならぬ意外な事実がその打ち合わせの中に含まれていたことがあとで分かる。

そのような中で最大最強の難敵は8月15日、それは突然やってきた。


(ドルショック:その@)


 ニクソン大統領のドル防衛政策の発表がそれである。金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金を含むこの政策は、文字通り世界を驚かせた。当時、このような事態を誰も予想できなかったのではなかろうか。世にいうニクソンショックである。

 この政策によってしてもドルの値下がりは止まらず、今日の変動相場制への移行につらなるわけだが、何しろこれまで1ドル360円の固定相場で対外収支のすべての秩序が成り立っていたのに、この比率がフロートし始めたのである。しかもどる安の方へどんどん進んでいく。沖縄県民は文字通り悲鳴をあげた。

 沖縄の流通通貨は戦後、円、B円軍票そして米ドルへ変遷し、昭和33年から米ドルになっていたのである。(なお、本土ではこの年に1万円札を発券している。)

 まず沖縄出身の本土留学生、長期療養者などの長期滞在者は、沖縄から送金される目減りしたドルで生活が苦しくなる。一方、沖縄県内では、生活必需品の9割が本土に依存しているため、物価がドル建てで急上昇し、住民のすべてが損失を蒙ってしまった。預金も債権も目減りである。沖縄県民の富は、円換算で軒並み目減りである。大変な事態である。現在のドル安は、円高で自国の富が殖えるといううれしい面があるが、当時の沖縄はその反対で富の目減りという悲劇を生んでしまった。

 当時のドル安というのは、つまるところベトナム戦の遂行等による米国政府の財政赤字などが遠因となっていると解説されたものだったが、それがやがてベトナム戦にブレーキをかけはじめ、沖縄返還をより早めた、という構図を見立てることができるが、それにしてもこのドル安には参った。

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2012年05月17日

■復帰40年・沖縄をどう理解すべきか

■復帰40年・沖縄をどう理解すべきか


 5月16日の琉球新報に復帰40年記念式典で沖縄と関わりの深い県外の出席者の声が出ていた。私がもっとも関心を示したのは、橋本内閣時に沖縄開発庁長官として沖縄政策にかかわった鈴木宗男さんの声である。

鈴木さんは沖縄の歴史認識に触れ、「サンフランシスコ講和条約の発効を起点とした沖縄と本土の差別構造が今も続いている」と指摘した。鈴木さんは沖縄の基地負担に最も貢献した人である。琉球新報が報じた鈴木さんの沖縄での発言が胸に響く。鈴木さんは「自身が在沖海兵隊の訓練を北海道で引き受けた」ことなどを挙げ、「やるべきことはやったが、もっとできることはあった」と振り返った。

 更に次のように述べた。「全国民が平和の配当を受けているのだから、沖縄だけに過度な基地負担を押し付けてはいけない」「国会議員全員が沖縄に目を向け、責任を持って負担軽減に励まなければならない」と強く主張した。


□ □
 式典が始まったその瞬間、急に大雨となった。式典で野田首相は「日米安全保障体制の役割は重要だ。抑止力を維持しつつ、沖縄の負担軽減を進める」と述べた。抑止力という言葉には抵抗感がある。沖縄の米軍基地を正当化する言葉だからだ「沖縄は忍土の蹉跌を踏め」と聞こえた。

沖縄は抑止力という言葉に苦しめられ基地を押し付けられている。野田首相は普天間は固定化せずとも述べたが、辺野古移設を進める政府の意図がおぼろげにかすんで見える。


 お祝いムードの中で元沖縄開発庁長官の上原康助さんは、「厳粛な式典にはふさわしくない挨拶かもしれないが」と前置きし、苦難と犠牲を強いられた沖縄の歴史に踏み込んだ。「銃剣とブルドーザーで強制接取された基地建設の経緯」を述べた。勇気ある沖縄の声だった。日米両政府には耳障りな発言かもしれないが、沖縄の現実を直視した挨拶が唯一の救いだった。普天間にノーを突きつけた。米軍が7月にも垂直離着陸輸送機MVオスプレイを県内に配備する計画を「沖縄軽視」と厳しく批判した。その瞬間、天気は降り出していた雨が「激しい豪雨」に変わった。天が泣いたのだろうか。

 沖縄復帰40年記念式典に出席した鳩山由紀夫元首相は、琉球新報の単独インタビューで「辺野古移設は困難」との認識を示した。この方は県外移設を唱えながら辺野古に回帰した張本人であるが、さらに復帰40年式典で沖縄を訪れ、「普天間の県内移設は難しいので県外移設を唱えるべきだ」と述べ漂流し始めた。「防衛、外務官僚を説得できなかった」と沖縄で詫びた。政治主導を唱えながら、官僚の手の上でホイホイ泳がされていたのを告白した。言葉を失ってしまう政治家への不信感を深めた。

 沖縄を理解するヒントは、国際政治学者・宮里政玄先生の識者談話に尽きる。516日:琉球新報報道)

日本の「戦略理論」はいつも米国の受け売り。抑止論もそうだ。それらはすべて沖縄の基地を前提としている。だが、沖縄が米軍普天間飛行場の県内移設に反対することは、日本政府にとって「黒船」になると思う。日本が米国に頼らず、自ら外交政策を考える真の独立国になるきっかけになり得るからだ。


◆沖縄に何十年も基地を置いておきながら、本土の人は良心に恥じることはないのか。安全保障は日本全体が恩恵を受けるのであり、公平に負担してもらいたい。

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2012年05月16日

復帰40年「沖縄は雨だった」

■復帰40年「沖縄は雨だった」

2012年5月15日、沖縄は復帰40年を迎えた。午後4時、復帰40年記念式典が始まろうとしたら大雨が降りだした。


 40年前の沖縄も大雨だった。沖縄は1972年5月15日、祖国復帰を実現したが、前日に続き大雨がさらに激しくなった。27年間の米軍統治下から解放された喜びよりも「基地を抱えた返還」に多くの県民が怒りと悔しさで流す涙かのようだった。

琉球新報は特集号で「天も泣いたその日の沖縄」と報道した。


□ □
 日本政府の沖縄出先機関では、前日の5月14日、沖縄の復帰対策がすべて完了し、職員が喜びを分かち合った。山中貞則総理府総務長官は那覇市与儀の沖縄・北方対策庁沖縄事務局で職員を慰労し、出先機関の看板を下ろした。眼には涙がにじんでいた。「贖罪意識」「償いの心」の復帰対策を成し遂げ、感慨深いものがあったのだろうか。

 那覇市与儀。この地は沖縄の歴史が凝縮された地である。沖縄の歴史は差別の歴史だった。薩摩支配、米軍統治、さらに那覇市与儀では「南連」による差別の歴史がある。

南連は戦災で消滅した沖縄県民の戸籍回復を放棄し、援護法適用では沖縄県民を差別してきた。南連とは日本政府の沖縄出先機関のことだ。南連は「GHQ:連合国最高司令部」の要請で設置された。「南連」は意外に知られていないが、米軍統治下の沖縄に君臨した代官所である。現在、跡地には山中貞則の揮毫で「日本政府南方連絡事務所の跡」の石碑が建立されている。


 那覇市与儀。ここは日本政府の復帰対策を進めた場所でもある。米軍統治下の沖縄で唯一「日の丸」を掲げることが許された。沖縄では日本政府のことを「南連」と呼んでいた。この地は僕の記憶から離れることはない。1970年5月、沖縄・北方対策庁発足とともに、沖縄事務局で沖縄の復帰対策を担当していたからだ。

 あれから40年余、復帰記念日の今日、感慨深いものがあり、南連の石碑を見に行った。今日(5月15日)、沖縄は復帰40年を迎えたが、復帰対策事務を担当していたころの山中大臣の次の言葉がよみがえる。

「諸君は今、非常に苦しい試練の時期であるが、沖縄復帰という輝かしい未来に向かって復帰対策には万全を期して対処せよ」。山中大臣の激励の言葉は職員に大きな感動と勇気を与えた。すごい情熱がこもっていた。

 2年後の1972年5月15日、復帰対策はスムーズに進み、沖縄は悲願だった祖国復帰を果たす。同日付で、沖縄開発庁沖縄総合事務局が発足した。山中大臣の号令で旧・日本政府職員は那覇市民会館で「沖縄復帰記念式典」に当たった。午後から沖縄総合事務局の辞令交付式があった。庁舎も完成しない。琉球政府からの職員も引き継がれた。式典の準備で辞令も準備されていない。前日の夜から人事課の職員が徹夜でボールペンの手書きで書かれた辞令が交付された。手書きの辞令は、国家機関では類例がないと思う。異常事態の総合事務局のスタートであった。

 あれから40年・・・沖縄はどう変わったか。10兆円のマネーが投下され道路や都市公園など社会インフラ、生活インフラは整備され、ほとんど本土並みの水準に達している。人口も45万人増えた。しかし、過重な基地負担は変わらない。弱い地域に基地を押し付けることは「構造的差別」であり、沖縄の苦悩は続く。いつまで忍土の蹉跌を踏めというのか。

 復帰40年の今日(5月15日)の沖縄タイムスに歴代知事に聞く特集記事が出ている。大田昌秀元知事の次の言葉が胸に響く。

「沖縄の歴史を振り返ると、沖縄戦では本土の防波堤にされ、サンフランシスコ講和条約や日米安保条約が適用されると、国体維持やアジア太平洋地域の平和構築などを大義名分に軍事基地が強化された」。「沖縄は大の虫を生かすために、犠牲になっている小の虫であり、政治的質草、取引の具であった」。「復帰とは何だったのか。基地とのかかわりで差別され、まともな人間扱いをされていない」。


 太田昌秀さんの意見は5月15日、NHK「ニュースウオッチ9」でも取り上げられ放映された。大越キャスターは沖縄と本土の意識の差を沖縄からリポートした。5月14日、15日のNHK「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスターは、沖縄の過重な「基地負担」、「基地とマネー」を取り上げていたが、振興策のジレンマに悩む沖縄の現実のリポートは迫力があった。全国民に見てほしい番組であった。

 複雑な思い出で、復帰40年を迎えた。基地の整理縮小を求める沖縄県民の遥かなる叫び声が全国にこだました。日本国民は「沖縄の心」をどのように受け止めたのだろうか。(宮田裕)

posted by ゆがふ沖縄 at 00:08| 沖縄復帰40年特集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする