2012年05月15日

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(22)

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(22)


毒ガス・干ばつ、ドルショックA


 ところが厄介なことに、70万ドルの援助金は、琉球政府の予算には入れさせない、と議会が反対しているという状況もあった。まさか日本政府が米軍へ直接援助する、なんてことはとても考えられない。全く八方ふさがりであった。

 確か昭和46年3月頃だったと思うが、この対応協議のため、大蔵の担当主査を日曜日に来庁してもらうことになった。軽井沢かどこかに行っていた主査を、日曜日に呼び出したものだから大いにご機嫌斜めである。当時我々には、土曜、日曜はなかった。その主査は元青森県の財政課長をやったことのある入江氏である。東京育ちの彼は青森の田舎を大いに褒めそやし、一杯飲んでは津軽の人情などを語り合う仲間である。が、毒ガスの件では大いに悩んだ。ここでは細々としたことは省略して結論だけを記する。

 70万ドルは予備費から出す。歳出科目は「化学兵器何トカ何トカに関する経費」として琉球政府に援助するが、これを琉球政府の歳入予算には入れずに、行政主席(屋良朝苗)が「歳入歳出現金」としてこれを預かり、直ちに高等弁務官に手渡す。つまり議会を通さない方法をとった。また、予想される生業補償とか生活補償は、琉球政府の立替払いとし、後日、日本政府がこれを清算する、ということで一件落着。

 その年の7月か8月にかけての頃だったと思うが、毒ガスの搬出が再開された。沿道の住民は各々非難し、商店も床屋さんも全部その間は休業。

 沿道には10メートル間隔に住民パワーからの強請もあって警官はもとより、琉球政府の副主席を筆頭に幹部職員が総出で立像のようにして運搬車両を見守る。まるでイブ・モンタン主演のフランス映画「恐怖の報酬」のシーンそっくり。

 そろりそろりと、ニトロならぬ毒ガスを、数十台の軍用大型トラックが、静寂の中をエンジン音だけを響かせて進行していく。テレビに映った立ち合いの政府職員の顔は引きつっていた。防毒用器もなく、平服のまま、暑い直射日光を浴びながら吹き出る汗を拭きはらう図は、人身御供そのものである。我々の仕事の相手方は、このようにして貴重な時間を無駄にさせられた。

 後日、補償のための予算をつくった。床屋さんの一日当たりのお客さんの数と料金はまあいいとして、小口雑貨店の売り上げはいくらいくらには、大いに閉会した。「9月6日沖縄米軍基地の毒ガスの移設完了」と日本史年表(歴史学研究会編)に記述がある。

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2012年05月14日

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(21)

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(21)


毒ガス・干ばつ、ドルショック@

 昭和46年6月。日米間で沖縄返還協定締結。復帰事務にますます拍車がかかる。しかし、復帰の月日は、まだ、未定。この日付が定まらないと予算編成が全くできない。お手上げである。

 こんな中でとんでもない大きな事件が三つ起きた。これさえなければ復帰事務はもう少し楽だった筈だったと今にして思う。

 その一つは「毒ガス問題」である。そもそも沖縄復帰にとって米軍基地はどうなるのか、というのは大問題だった。日米安保と地位協定は当然に適用されるとしても、どうも沖縄の米軍基地の中身が胡散臭い。本土の基地と違い、米軍がやりたい放題にしているのだから何があるか分かったもんでもない。それがはっきりしないまま、薄気味の悪い基地を抱えての祖国復帰は「我らの望むところにあらず」として沖縄の屋良主席をはじめ軍労、自治労の「返還協定交渉反対」の運動があったくらいである。

 果たせるかな、沖縄には1万3千トン余の毒ガスが貯蔵されていることを米軍が発表。これを復帰前に太平洋のジョンストン島へ移送するとして46年1月、その一部を貯蔵庫から勝連半島の海軍基地へ陸送。そこで住民が立ち上がった。そんな危険物を、堂々と生活道路を使って運搬するなんてもっての外、万が一事故があったらどうする。世論は沸騰した。米軍による毒ガス搬出はストップしたままとなった。琉球政府の行政もこの騒動のためすっかり機能停止の状態に陥った。

 核兵器はもちろん、毒ガスも早々に沖縄から撤去してもらいたい、との県民感情は大いに理解できるのだが、その搬出に待ったをかけるのにはそれなりの理由があるというのである。米軍発表では危険はないというが、沖縄の道路事情から見て、万が一の事故があったら大変だという不安は日増しに増幅していく。

 やがて米側から具体的な打開策の提示があった。安全輸送のため、米軍基地内の道路を補修するのでその経費70万ドルを負担せよ、というものだった。これは住民の怒りをさらに煽った。そんなものに住民の税金を使うことはまかりならぬ、というもっともな理屈である。


 こういう状態なので日本政府の方で何とかして欲しい。つまり、70万ドルの道路補修費と輸送中に沿線の住民が避難するのでその生活補償分を援助して欲しい、という要望が総理府に届いた。

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2012年05月13日

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(20)

◎沖縄復帰40年特集

第3部 櫻井溥「沖縄を語る」(20)


沖縄の祖国復帰事務D

 さて、では始めようか。」と大臣の開会宣言があって、まず法規課長が説明に立った。後で思うと、大蔵は「沖縄補助率一覧(案)」を懐にしのばせて、法規課長はその露払いの役立ったのである。

 「補助率には一定の考え方がありまして、たとえば港湾にとってご説明いたしますと、港の最先端にある防波堤、これは非常に公共性の高い施設でありますから補助率は10/10あるいは9/10というふうになっております。一方護岸、岸壁となりますと、そこには船会社などの特定の受益者がいるわけですから、その受益者の負担をも考慮し、3/4とか2/3とかになっているのであります。これと同様に、非公共の義務教育の校舎、それから高校校舎につきましては・・・・。」

 「もういいよ。それは分かっているよ。」大臣は法規課長の説明を遮った。「そういうことはよく分かってるんだ。しかし、ここで議論しようとしているのは、復帰後の沖縄で展開される事業の国庫の負担率と補助率のことなんだよ。」

 一同「? ?・・・・・」

 その時の大臣の顔は、官僚の思考経路を超えて、政治家・山中貞則になっていた。(と思えた。)思わぬ展開に一同息を呑んで大臣の口元を見詰める。

 「沖縄はなあ、27年間も本土と切り離されていたんだよ。その間、日本の行政が及んでいなかったということだよ。そこんとこをかんがえなきゃ。」

「その間、本土ではいろんな高率補助があったろう。北海道、離島、奄美、小笠原それに現在やっている援助金の補助率。これら一切合財が沖縄には適用されてなかったのだよ。」

 「だから、沖縄の補助率は戦後存在したもの、また現行のすべての高率補助のうちの最高のものをすべて法律に盛ることにする。」と断を下した。

 そこで主計局長はあわてて「しかし、大臣。沖縄は戦後いろいろご苦労されたでしょうが、その中にあって公共施設も十分にないにしても結構整備されているものもありますよ。(だから終戦直後のような補助率や、奄美復興時の補助率をこれからの沖縄に適用するのは不適当。)」

 「しかし相沢君、君は離島にはいったことがあるかも知れないが、離島はひどいもんだよ。」


 「離島は行ったことがないものですから。」

 相沢主計官の声は低く、いわゆるデベートに一本取られた格好となった。そのうちに、とにかく我々(大蔵)の案を是非見て下さい。これをご覧になりますときっと大臣も満足されると思いますが、と椅子に掛けた上着の内ポケットから1枚の紙を取り出して差し出そうとしたが、大臣は軽くそれを制して「いや、俺はそれを見ない。見るとそれに惚れてしまうからな。とにかくそれは受け取れない。さっきの俺の案でないと、国会は通らんよ。」

 話し合いは完全に決裂である。さすがの天下の名主計局長も、「今日はこれで帰ります」と一声残してそそくさと帰りはじめる。あとの同行者もあわてて後を追う。

 「まあ、まあ、そんなにあわてなくても。おい秘書官、そこのキャビネットの中から・・・」と言ってナポレオン数本とか、葉巻を補佐たちに持たせてやった。

 後味の悪い幕切れだった。後で聞いたことだが、大蔵はすっかり面目をつぶし、帰ってから皆で大酒を飲んだという。主計官の1人にその風貌からして「ナポレオン」と渾名されし人物あり。大臣から頂戴せしナポレオンを痛飲し、自家中毒をおこし大いに悪酔いせし、とか。その主計官は総理府担当でのちに理財局長となり、現在、山一証券経済研究所理事長のK氏。

 この補助率の件。いろいろありましたが結局、山中大臣のいう通りとなった。



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