2017年07月11日

半世紀後の沖縄振興計画はあり得るのか(31)

半世紀後の沖縄振興計画はあり得るのか(31)

■終わらぬ戦後処理(3)
〜未処理埋没不発弾2033トンにあと70年〜

復帰後の主な不発弾爆発事故を掲げる。
@1974年3月、那覇市小禄の私立幼稚園横の下水道工事現場で不発弾爆発。4人死亡、34人重軽傷。家屋損壊80戸、車両被害41台

A1975年5月、知念村(現南城市)知念で護岸の上で白煙が噴出し、突然爆発。小学生2人が顔面にやけど。

B1975年9月、伊良部町(現宮古島市)佐良浜で不発弾切断中に爆発。死者1人。

C1976年7月、浦添市内間で不発弾に小中学生が石を投げつけ爆発。4人が重軽傷。

D1978年4月、豊見城村(当時)我那覇で雑木を焼却中に不発弾が爆発。1人けが。

E1978年7月、南風原町新川で原野火災が発生し不発弾が爆発。消防隊員2人けが。

F1984年11月、嘉手納町水釜で不発弾を可燃処理物のドラム缶に投げ入れて爆発。小学生が足に裂傷。

G1987年1月、那覇市長田で旧日本軍砲弾を解体作業中に爆発。1人死亡。

H1989年4月、伊江村東江上で草刈り機が不発弾に触れ爆発。1人死亡。

I1991年12月、糸満市大里で廃材焼却中に爆発。1人けが。

J1995年、宮古島の住宅地で50キロ爆弾が爆発、民家の門柱などを壊した。

K1997年11月、嘉手納町水釜の民家庭先で草刈り中に不発弾が爆発。1人が負傷。

L2001年6月、具志頭村(現八重瀬町)安里の土地改良工事現場で作業員が削岩作業中、地中で爆発して白煙を上げている不発弾を発見。けが人なし

M2001年6月、西原町マリンタウンプロジェクト埋め立て地で整地作業中のブルドーザーが黄りん弾の不発弾を踏み爆発、運転していた男性が頭部に軽傷。同月だけで同じ現場で4件の発火、爆発事故が発生。

N2008年7月、那覇市首里末吉町の工事現場で不発弾らしきものから煙が出ていると110番通報

O2009年1月、糸満市小波蔵で水道工事中に不発弾爆発。2人が重軽傷。糸満市発注の市道「真栄平・名城」線整備に伴う水道管敷設工事の際、重機が約1メートル掘削した地点で爆発。重機運転手は顔面を負傷し重傷。

これが復帰後の主な不発弾爆発事故だ。沖縄不発弾対策協議会は、埋没不発弾等の探査、発掘計画、不発弾等埋設状況の把握、不発弾等爆発被害状況の把握に動き出す。

糸満の事故以降、公共工事実施等における事前調査の義務化(2009年度)、不発弾等事前調査データーベースの構築(2009年度)、不発弾発見後の安全対策のためのライナープレートの無償貸し出し(2009年度)、磁気探査研修(2010年度)、不発弾処理時の安全化対策に係る補助金対象経費の拡大(2011年度)、住宅開発磁気探査支援事業(2012年度)等不発弾対策が強化されたのである。

posted by ゆがふ沖縄 at 01:00| 大学の窓から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

半世紀後の沖縄振興計画はあり得るのか(30)

半世紀後の沖縄振興計画はあり得るのか(30)

■終わらぬ戦後処理(2)
〜未処理埋没不発弾2033トンにあと70年〜

小禄の聖マタイ幼稚園の不発弾爆発事故は、復帰後の公共事業実施にショックを与えた。当時の園長・鬼本(きもと)照男さんから事故についてヒャリング。

痛ましい事故の内容は沖縄縄開発本庁へ逐一報告、戦後処理問題が議論されるようになる。

聖マタイ幼稚園の不発弾爆発事故で死者4名、重軽傷者34人、家屋破壊81戸。
この事故を受け、沖縄振興と不発弾対策が議論されるようになる。

沖縄不発弾対策協議会が設置され、沖縄総合事務局が事務を総括。構成員は県内16機関で構成、各関係機関と連絡・調整を行っているほか、不発弾対策に係る交付金等の予算措置を通じて対策の強化、充実を図っている現状だ。

米軍支配下でも不発弾事故は続発していた。1948年8月、伊江島で戦争当時の不発弾を島外に運び出す作業をしていた米軍弾薬処理船(LCT)が爆発。民間の連絡船と同じ伊江港を利用していたため乗客、船員、出迎えなど死者106人、負傷73人、8家屋が全焼したのだ。

1966年10月、金武村(当時)海兵隊演習場で薬きょう拾いの女性が不発弾爆発で死亡。米軍政下の事故は、植民地扱いで補償はない。

先の大戦において沖縄は、激しい艦砲射撃、砲爆撃を受けたが、復帰直後の1974年3月の聖マタイ幼稚園の不発弾爆発事故は、沖縄振興の在り方を検討するきっかけになった。戦後72年が経過したが、不発弾は地下に埋設されている現状である。

沖縄戦で20万トンの爆弾が投下されたが、1万トンは不発弾と言われている。戦後処理されたのは7300トン余、2033トンが未処理であと70年かかるという。

処理される不発弾は発見される形態により、発見弾と埋没弾に区別されるが、工事等によって偶然発見される発見弾が大半。民間の住宅建設や公共工事等によって偶然発見され、処理されるのが発見弾。住民等からの情報に基づき探査、発掘を行い処理されるのが埋設弾だ。

小禄の聖マタイ幼稚園の不発弾爆発事故は、機雷47式改長さ70センチで破壊力のある爆弾だった。沖縄戦で航空機から投下された爆弾は長さ1メーター19センチの250キロ爆弾、70センチを超える50キロ爆弾、その他、各種砲弾が鉄の暴風と表現され20万トンの爆弾が集中的に投下されたのである。
posted by ゆがふ沖縄 at 00:56| 大学の窓から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月07日

半世紀後の沖縄振興計画はあり得るのか(29)

半世紀後の沖縄振興計画はあり得るのか(29)

■終わらぬ戦後処理(1)
〜未処理埋没不発弾2033トンにあと70年〜

いまから43年前の1974年3月2日、那覇市小禄の聖マタイ幼稚園そばの下水道工事現場で不発弾爆発事故が起こった。激震が沖縄総合事務局を襲った。

沖縄開発庁から指示が出た。即刻情報収集し報告せよ。事故は幼児を含む死者4人、重軽傷者34人を出した。沖縄2紙は大きく報道した。

工事現場で重機が基礎工事用の鉄杭(くい)を打つ中、旧日本軍が使用した機雷に触れ爆発したのだ。

豊かな沖縄県づくりの真っただ中に起こった事故だ。沖縄対策は、沖縄の歴史的、地理的な条件や米軍基地の存在などの諸事情を踏まえ、沖縄振興策が実施されたが、復帰したとはいえ、沖縄総合事務局は沖縄の戦後処理問題に直面した。総務部が担当した。

初代調査企画課長は桜井溥さん。米軍政下の沖縄に日本政府財政援助を担当し、沖縄を知り尽くした官僚だ。山中貞則総理府総務長官に仕え、山中さんが初代沖縄開発庁長官に赴任すると、30代後半の若さで沖縄に派遣され、ドルから円への通貨交換差損補償に取り組み、一件落着したら沖縄戦当時の不発弾爆発事故が起こったのである。

幼稚園で起こった爆発事故。土砂で人が生き埋めになり、重機や鉄杭が吹き飛んで車両や民家に直撃。課長と担当者が現場に飛んだ。その日幼稚園では、園児や父母ら約400人が参加しひな祭り会が開かれていたが、爆発音と地響きで園内に悲鳴がこだましたという。
posted by ゆがふ沖縄 at 00:21| 大学の窓から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする