2017年04月05日

沖縄予算一括計上の本質㉙

沖縄予算一括計上の本質㉙
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

第1次振興計画の経済フレームは、県内総生産に占める第2次産業の割合を18%から30%に引き上げ、1人当たり県民所得を33万円から3倍に引き上げる計画だった。

しかし、新規企業の誘致がほとんど見られない状況で、工業用地造成等物的基盤整備に加えて、既存の各種の制度の活用が議論された

その結果、雇用の確保と所得水準の向上が県民福祉の前提であるという共通認識に立ち、新規企業の誘致を積極的に進めることとした。この方策は審議会でコンセンサスが得られた。

一方、復帰後の公共事業を振り返ってみると、高率補助が適用され社会資本の整備は積極的に進められてきたが、空港、港湾施設については未だ十分ではなく生活・産業インフラ整備の面から公共投資の必要性が議論された。

交通混雑の緩和策として道路網の整備も必要とされた。すでに述べたが、水問題は深刻だった。当時、沖縄では夏場の断水が常態化していた。断水に悩まされていた。渇水期の水資源の確保に不安が残されていた。復帰後水の需要が増大し、ダム開発が急がれた。

そのほか、農林水産業の基盤整備は立ち遅れており、また、生活環境施設についてもなお不足している状況であった。

さらには、復帰後急増した人口が本島中南部地域に集中したため、この地域の過密化が進行し、都市環境整備の遅れや周辺農村部のスプロール化などが生じ、また、一部の離島、へき地においては過疎化の進行による社会の活力の相対的低下などの問題も指摘された。

このように1次振興計画後期においては、課題が山積しており目標達成のために行政と県民が一体となった一層の努力が求められていた。沖縄総合事務局では社会経済変動調査を実施し、沖縄経済の実証分析を行った。

総合部会は、1次振興計画中期展望について沖縄の振興開発計画は残り5年で終結する形をとるのではなく、1982年度以降に及ぶ長期にわたる計画について早急に検討を開始する必要があると結論付けた。

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2017年04月04日

沖縄予算一括計上の本質㉘

沖縄予算一括計上の本質㉘
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

専門委員会で雇用問題を検討していたころの話。各種産業を個別に検討し、産業振興なくして雇用力増大は期待できないという議論をしていた。沖縄は国、県あげて早急に産業振興に取り組む必要があった。

産業振興面は遅々として進まない。各企業は活動の低迷で活力を失い、その上高い失業率のため、本土との所得格差が解消されていなくて心配していた時期であった。特に本土経済の基調変化で投資意欲の減退が続いた経済状況と併せ沖縄は、市場の狭隘さ、産業化技術が乏しく、水、エネルギーの制約的要因等から予測に反し産業振興は進んでいなかった。

産業構造は第3次産業の比重が高く、生産材、消費財の多くを県外に依存し、極端な移(輸)入超過が続き、さらに財政依存体質経済からの脱却が議論されていた。

このような状況を踏まえ、沖縄が第3次産業に著しく偏った産業構造の背景について、沖縄がこれまでたどってきた歴史的な事情から県経済は「ザル経済」という言葉が生まれた。琉球大学・山里将晃教授の言葉である。財政を投入してもザルの目から抜け落ちていく経済のことだ。論陣を交わしていた。

戦後の沖縄経済。戦禍と戦後27年間にわたる本土との隔絶。社会資本整備の遅れ。日本政府から取り残された財政援助。経済構造を基地依存型消費経済といういびつなものにしてしまったのだ。

復帰を果たしたが、沖縄経済が結果的に本土の経済成長の波に乗り切れなかった。遠隔地ゆえの市場の狭隘性。すなわち、人口百万人の沖縄ではおのずと市場に限界があり、また、本土市場へ参入するにも輸送コストが障害となり、その結果として、産業発展に不可欠なスケールメリットをほとんど享受し得なかったというのが沖縄経済であった。

企業変革を現実化する戦略ナビゲーションはない。現実的な企業論に立つと、経営販売技術が低い。品質管理技術を備え漏った意欲ある企業家が少ない。リーディングカンパニーが育たず本土の高度経済成長に遅れる結果となり、振興計画が目指す本土との所得格差の目標は挫折した。産業振興は第1次振興計画の中で最も遅れた分野となったのである。

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2017年04月03日

沖縄予算一括計上の本質㉗

沖縄予算一括計上の本質㉗
〜敗戦後の財政援助から沖縄予算へ

復帰後、沖縄の水問題は深刻な課題になっていた。沖縄本島の降雨量は年約2300ミリメートルで本土の1800ミリメートルに比べて多いが、人口1人当たりに換算すると本土の約二分の一であり、降雨量の半分近くは5〜6月の降雨及び7月〜9月の台風に伴う雨水である。

このためダム建設が急がれていた。沖縄本島は地質及び地形上ダム建設可能な地域は北部の地域に限られており、また、ダムの建設が可能な地域も河川の勾配が急なこと及びダム上流も峡谷地形であること等のため貯水容量の小さなダムしか望めない。

当時、沖縄では一日平均35万トンの水需要があったが、このうち20万7千トンは不安定な河川表流水等に依存しており、残りの14万3千トンが復帰後完成した福地ダム(日量12万5千トン)及び新川ダム(日量1万8千トン)に依存していた。

このため、渇水時になると河川表流水等の取水量が減少し、1977年度には制限給水日数が158日に達した。

福地ダムは米軍が開発したが復帰後国管理ダムに移管され1973年3月完成したが1979年1月再開発計画決定、1991年度に再開発が完成した。有効貯水容量5200万トンである。安波ダム(1740万トン)、普久川(ふんがわ)ダム(235万トン)は1973年度着工し1981年度完成した。

復帰後1次振興計画でダム開発に投入された予算は下記のとおりであった。
1972年度20億円、73年度25億円、74年度28億円、75年度36億円、76年度40億円、77年度56億円、78年度86億円、79年度98億円、80年度102億円、81年度105億円、計597億円が復帰後10年間で投入された。
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